9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

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『阿修羅ガール』舞城王太郎:感想 あとはラ・ラ・ランドと手法の目的化と良質なコンテンツ

ラ・ラ・ランドが話題であってまぁ見るかっつって先週だか見に行って大変おもしろく見てよかったなっつって。で、その後追っていたらば日本ではぼちぼち賛否が分かれているようで、そこまでの傑作か?という意見もぼちぼち見られるわけで。

 

で、まぁこの意見の食い違いはたぶんシンプルなもので、映画をストーリーだけで見るか、つくられた映像でみるかの違いかなと思うわけで。ストーリーだけでいうとラ・ラ・ランドはそこまでのアレでは無いラブストーリーであって、同じミュージカル映画でラブストーリーのムーラン・ルージュなんかは時代背景が違うこともあるけれどもストーリー性よりエンタメになっていて、ストーリーだけで見ると「そこまでか?」という意見にも理解はできる。

 

とはいえラ・ラ・ランドはその映像のつくりやオマージュが評価されてやまないのであって、映像作品として、映画としてつくられ、映画として評価されているだろう。たとえばガス・ヴァン・サントのエレファントでもそのストーリーはそんな起伏が無い映画なんだけど、その後ろにある日常の描きかた、映画として作られ方は最the高であって、「あ、これはパルムドールと監督賞だわ」と頷くしか無いものである。

 

で、読書ブログであるところの当ブログで読んだのは舞城王太郎著『阿修羅ガール』であって、なぜラ・ラ・ランドを出したかというと本作もストーリーで見るか小説の体裁で見るかのものであるからであって。

 

 

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

 

 

 

まぁ何かというとストーリーはクソであっておもしろくもなんとも無いんだけれども、じゃあなぜ三島由紀夫賞を取っているかというと小説の体裁であって、女子高生アイコの一人称視点、女子高生の口調でタラタラと書き綴られている本作ははっきりとついていけるかどうかが分かれると思われ。

 

背表紙。

 

アイコは金田陽治への想いを抱えて少女的に悩んでいた。その間に街はカオスの大車輪!グルグル魔神は暴走してるし、同級生は誘拐されてるし、世界は、そして私の恋はどうなっちゃうんだろう?東京と魔界を彷徨いながら、アイコが見つけたものとは──。三島由紀夫賞受賞作。

 

ハチャメチャなストーリーなうえに、それが女子高生アイコの口調や思想も伴いながらつらつらと描かれ、つまりは女子高生がリアルに描かれているように思わせられる作風。で、何かというと読むのがしんどいけれども小説の手法でひとつあるのかなぁ、というかんじ。何年か前にケータイ小説で話題になったなんとか、なんだっけ、あれだ、『あたし彼女』。「みたいな。」が頻発して区切られるやつ。アレと同じようなアレだ。

 

 

三島賞選考で宮本輝が「下品で不潔な文章」と酷評したようだけれどもまぁその通りで、手法のところが評価されたのであって、ストーリーや心情の機微は別にたいしたことはないのであって、つまりはラ・ラ・ランドである。いや、ラ・ラ・ランドは良さがあるけれども。

 

 

クリエイティブに携わる際にはしばしば手法のみに気づかい中身が無いものがあるんだけど、それこそ手段の目的化であり、あるいはここでは手法の目的化と言っても良さ。「こういう手法でやってみました。おもしろいでしょ」って言われても中身が伴わなければクソであって、手法だけで評価されるのはアレなのでやはり中身が伴わないと。良質なコンテンツ。うふふ。