9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

二度と富士山に登るかクソが!

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富士山というと言わずと知れた日本一高い山であり、日本のシンボルのひとつだ。
そんな富士山に人生で初めて登った。

 

まず始めに言いたいのは、

富士山に登ってよかった。

それは間違いない。

 

 

天気にも恵まれ、たとえば8合目辺りで見たご来光の美しさや道中食べたスニッカーズのおいしさ、体が疲れてくる中、都度設置された山小屋での休憩する際の癒やしや安堵感、本8合目で食べたカップヌードル、途中見える雲海や頂上から見える景色は壮大だ。富士山山頂の景色であればちょっと画像検索をかければいくらでも写真が出る昨今だけれども、その景色はやはり実体験に勝ることはなく、勝ち取った風景は自分の中に宿るだろう。

 

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他にも降りた後の八王子のスーパー銭湯は最高だったし、それが最高だったのも登ったから味わうことができたのは間違いなく、深夜に見た星空は普段生活している街中では見ることはできないぐらい。今回は総勢10人で行った。途中しゃべりながら歩いたり、一人では早々にリタイアしていただろう。

 

そして何よりも、やはり登り切ったという達成感がある。やってやったぜ感がある。頂上にもそういった雰囲気があふれていて、頂上の碑の前で記念撮影をしていたり、火口や雲海をぼんやり眺めて体を休ませていたり、とても素敵な空間だった。頂上で吸うタバコは格別だ。

 

それはもちろん何度も登ったことがある人に比べるとおれが初めて登ったことなんかは些細なことではあるけれども、富士山に登ったことによって今まで富士山に登ったことが無かった自分と訣別することができた気がする。つまりは富士山に登ったことがない人と比べて間違いなく富士山に登ったことがあるのだ。その事実は自信となり、たとえば富士山に登ったことが無いひとと口喧嘩にでもなった日には「富士山に登ったことも無いくせに」と啖呵を切るとその相手は事実では言い返せず「ぐぬぅ」となるだろう。もしくは「だから何なんだよ」と火に油をそそぐかもしれないし「じゃぁてめぇはアナルセックスしたことあんのかよ」と返され今度はこちらが「ぐぬぅ」となるけれども経験談の低レベルな口喧嘩になりバカバカしさに呆れて終戦が近くなるだろう。

 

それでもなお、おれは言わないといけない。

 

二度と登るかクソが!

 

間違ってはならないのは、先述した「登ってよかった」というのは事実だ、真実だ、本当の想いであり感想だ。

 

そして美談だ。おれは二度と登りたくない。なぜか。登る道中つらいからだ。ナチュラルにしんどいからだ。二度とあんなつらい体験はしたくない。徐々にスタミナが削がれていく。体が痛んでくる。たとえではなく口でひーひー言いながら登る。「つらい、とてもつらい」と言いながら登る。

 

そもそもここ15年ぐらいまともに運動していないのである。ダンボールをちょっと持ち上げるだけで筋肉痛になるぐらいだ。もちろん序盤から体は悲鳴をあげる。脳が「坂道を登り続けるなんて気でも違ったか」と語りかけてくる。

 

「頂上まであと3km」みたいな表示がある。なるほど、とか思いながらひぃひぃ言いながら歩き、結構歩いたなというところで次の表示を見ると200メートルしか進んでなかったりして絶望だ。たとえば道中はそれぞれ自分のペースで止まったり休憩するけれども、山小屋をメドに超休憩に入る。次の山小屋までの距離は時に絶望だ。等間隔ぐらいで山小屋が配置されている際には、休憩してよっしゃ次の山小屋まで行こう、というゴールが現実的に見えた。等間隔だからだ。それが少し離れるとどうだ。さらに絶望だ。

 

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たまに「登山道」と書かれていたりする。

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どこが道なんだよ。道の概念や定義を疑いにかかる。

 

他の登山者の顔を見てみなよ。山小屋以外ではとても疲れていて絶望的な表情をしているじゃないか。なんでこんなことしてるんだろうと自問自答しているのではないだろうか。それは終盤の鳥居からが特に顕著だ。

 

最後の山小屋からは頂上が見える。鳥居が2つ見えるのだ。ひとつは9合目の鳥居、もうひとつは頂上の鳥居。ゴールはすぐそこだ。 まず我々は最初の鳥居を目指す。ひぃひぃ言いながら最初の鳥居に至って休憩をしていると、次の鳥居まで400メートルで完了だ。完パケだ。しかしこれが罠だ。最後の400メートルが非常につらい。足元が悪く勾配もきつい。ジグザグに山道を進むけれども「ジ」「グ」「ザ」「グ」ごとに休憩が必要なぐらいつらい。

 

足が進まなくなる。空気が薄い。息が上がる。最後の力なんかすっかり振り絞ってしまっている。

 

終盤にはしんどさや疲れ、つらさのあまり頭がおかしくなってくる。他登山者は何を考えながら登っているのだろう。 たとえばおれは「50歩あるいたら休もう」ルールを策定して、ひたすら50歩をカウントするマシーンと化した。途中30歩で休憩しちゃうズルもした。 他にもなぜかGLEE版のHello, Goodbyeが頭をひたすらループしたり、このつらみをいかなる罵詈雑言を駆使してブログに書いてやろうか頭で構成を考えていたりした。

 

登り始めるときのおれだ。余裕が見て取れる。ジーパンだし山をナメてる。

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それが終盤はこうだ。目がイッている。

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そして登り切った。それは良かった。感動だ。昨日までのおれとは訣別だ。

記念に「富士山の頂上でも自撮りしちゃう自己顕示欲が強い女の子」のモノマネを披露した。

 

登り切ったという安堵感、満足感、余裕だろう。

しかしそれで終わりではない。降りないといけないのだ。昨日までの「富士山に登ったことがないおれ」との訣別に加えて昨日までの「富士山から降りたことが無いおれ」とも訣別しないといけないのだ。

 

上りに比べると使う筋肉が違うのか、スムーズに足は運ぶけれどもこれもまたつらい。ひたすら砂利道をジグザグに下っていく。

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すべって足首をぐねる危険をはらませる。気をつけながらも足を滑らせながらも、代わり映えしない景色とコースをひたすら進んでいく。いやになってくるのだ。道中ブルドーザーみたいなブンブン威嚇しながら通ってこわい。どの辺まで降りたのだろう、地図を見ても標高的には全然下がってなかったりうんざりだ。

 

とてもつらい。

富士山には二度と登らない。

 

これは何も、富士山に登ることを否定しているわけではない。
強調するなら富士山には"二度と"登らない、だ。(両手の人差し指と中指を揃えてニギニギしてダブルクォーテーションマークのポーズ)
一度登ったことは誇らしく感じる。しかし二度目はない。

 

あのつらさは二度経験したくない。なぜならしんどいからだ。
一度経験した。それで良いではないか。

 

これは何も富士山に限ったことではない。仕事でもそうだろう。
一度つらさを体験すると、そのつらさを二度としないようにしっかり準備をしたりすることが必要であって、同じつらさに飛び込むのは無謀だ。


たとえば君が仕方なく同じようなつらい場面にずっと留まるようであれば、休憩が必要だ。富士山だって50歩ごとに休憩した。 つらかったからこそ達成感を感じるのはあまりにもマゾヒスティックだ。 つらかった分を達成感にすり替えるのはよくない。 つらさがなく達成しても、達成度は同じだ。つらさを達成度に水増しするのは本質からずれていて良くない。 達成度にプロセスは関係ない。むしろスムーズに、ストレスの無いようにプロセスを整備してこその達成だ。つらかったら休憩しよう。プロセスを見なおそう。

 

今はただ筋肉痛がとてもつらい。 

こんな経験は"二度と"経験しなくていいと思う。