いつかと同じ風というのはラブホ街のビル風のことかもしれない。
あらためて言うと夏という季節が嫌いであり、その理由はただただ暑いということと日焼けをするからだ。
では冬が好きかというとそうでもなく、その理由はただただ寒いから。
とはいえ春夏秋冬、四季が訪れ季節ごとに特徴があるのはやはり区切りがあって良さがある。
夏が終わる。
森山直太朗は「夏の終わりにはただ貴方に会いたくなるの」と歌った。ここだけを抜き出すとどういう状況かが曖昧であり、たとえば今好きな人がいて、まるで声が聞きたいから電話をかけたいけれどもなかなかダイヤルをまわせないの的な恥じらいにも聴こえるけれどもそうではなく、その後に「いつかと同じ風吹き抜けるから」と続いているので記憶、つまりは列を春夏秋冬で分割した1年を縦に積み行とした際に、エクセルでいうB6ぐらいにいた「貴方」を描いていることが類推される。
つまりは過去の夏と今年の夏の対比であり、過去の夏と比べて今年の夏、エクセルでいうB2(1行目であるB1はもちろんタイトルで「夏」だ)が残念だったことも想像に容易いのであり、「貴方」といた夏のほうが良さがあったので会いたくなるという非常に絶望的な歌である。もしかするとひと夏の恋、つまりはワンチャンキメた夜を思い出しているのかもしれない。いつかと同じ風というのはラブホ街のビル風のことかもしれない。知らんけど。
一転してこの夏。この夏は珍しく休みの予定がほぼほぼ埋まっていてスーパー銭湯に行ったり始発から麻雀をしたり大阪に帰ったりヌメリナイトや痛ドルライブに行ったり。後は仕事してた。
やはり夏という季節が嫌いであり、その理由はただただ暑いということと日焼けをするからだ。
でも夏が終わるとなるとほんの少しだけアレだ。アレ。
次にセンチメンタル・バスのSunny Day Sundayを聴く頃には34歳になってるな。(夏が終わるメタファー)
— くれ えいぞう (@Eizo0000) August 31, 2016
打ちのめされた話
たとえばこのブログの最後は「がんばるぞい。」で終わるのであって、具体的にどうこうすることをがんばるぞ!と書けないのはつまりはその具体的プランが無いということである。さらには「がんばるぞ!」ではなく語尾を「ぞい」と少しおちゃらけた形にするのも真剣な具合を隠すような偽装であり、そもそも「がんばる」自体もあるいは幼さを演出するためのものであることが腹立たしくなり、最後を「がんばるぞい。」で締めて公開ボタンを押すと同時に今から書くことに対しても書いたことに対しても「ぐわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!ちくしょ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」となるのが目に見えているのが悲しいのだけれども、それでもなお書かないと、つまりは吐露しないと、あー、こりゃ駄目だってかんじなの朝7時、早起きして支度を済ませて自転車に飛び乗り会社がある恵比寿、開店と同時に入ったプロントでアイスコーヒーを飲みつつ頭を抱えながらチュラチュラと書いているのであって。
3日連続で打ちのめされた。
ズン、ズン、ズン、と3日連続でそれぞれひとつずつ、別方向から打ちのめされた。
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痛ドルを追いかけた夏の日
目次
- 痛ドルGOに行ってきた話
- 痛ドルとは何か
- 次の痛ドルイベント
雨が降ったりやんだりする不安定な天気の合間に夏の太陽が現れる。湿度を伴った陽射しが強い夏の日の公園で、おれは痛ドルを追いかけて走り回っていた。
このように書くと君は3つの疑問点が頭をよぎるのではないだろうか。
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