9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

キャンプに連れていってもらった話

享楽がそこいらに溢れており人の喧騒、テクノロジー、人の生活はより便利になり相席居酒屋。女性は食べ放題飲み放題が無料で提供され、男性がその費用をまかなうビジネスモデル。ただ飲み食いしたい女性、出会いたい女性、出会いたい男性といった属性に分けられ出会いたい男性は出会いたい女性を見定めアプローチをかけるのだろう。行ったことないから知らんけど。

 

自然と触れ合う。

 

本来完全なるインドア、休日には家にいるのはイヤだけれども日焼けもしたくなく、どこか出かけてそれはたとえばコーヒーを飲みながら本を読んだり映画を見たりまんが喫茶に行ったりスロットに行ったりするインドアバットアウトオブハウスで過ごすおれ、夏場に海に行くようなことも10年以上していない。環境問題が叫ばれ続ける近代、開拓される自然環境と維持される自然環境、33歳になって今、普段しないこともしてみないといけないという欲求は日に日に増大する。この世の全てを熟知したオールマイティになりたい。

 

知るというのは体験である。キャンプ未経験のおれ、キャンプを体験しないといけない。ラッキーなことにキャンプにはまっている友人がいる。連れて行ってもらおう。体験というのは連鎖だ。誰かが体験したものをイントロデュースだ。イントロデュースにより体験が広がり連鎖を引き起こす。キャンプに行ったことがないのであれば、行ったことある友人に相談すればよいのである。ということで、友人と約束をとりつける。奥多摩に行ったわけである。

 

奥多摩

ありがたいことにゲスト用のテントや寝袋も持っているとのことで持参したのはお箸とコップ程度だ。電車で2時間ほどかかるとのことで時間つぶしに本でも読むと良いだろうということでかばんの中に1000ページ近くあるコトラーマーケティング・マネジメントを入れていたけれどもそれが一番の荷物だった。友人は70リットル入るリュックサックを背負い、おれは肩掛けのかばんひとつで集合。中央線をひたすら西に進む。国分寺やら青梅で乗り換えをし、青梅線の最果て、奥多摩駅。道中、車窓から見える風景は徐々に田舎のそれに変わっていく。 実家も大阪でありそこまで田舎ではない。実家から山の上にあるおじいちゃんのお墓に向かう道中のような景色だった。

 

駅チカのキャンプ場

元始、女性は太陽であつた。天気に恵まれた奥多摩駅に降りる。駅前にコンビニなんかは無いけれども、お肉屋さんやスーパーなどはあり、そこで食材を購入。キャンプ場までも駅から徒歩10分程度の氷川キャンプ場へ。ロッジやシャワーも兼ね備えられており、大学生達が1泊2日のキャンプなんぞでキャッキャキャッキャしていた。川沿いの岩場にテントを張ったり火をおこすこともゆるされている。また便利なもので、売店で薪や着火剤のほか、各種器具のレンタルも行われており気軽に訪れることができる。

 

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木々が生い茂る緑、ちゅらちゅらと川が流れる。ネイチャーである。

 

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クセが強いキャンプメシ

ということでキャンプ場に着くと友人はテントを貼る。おれはそれを見ている。特にすることは無いのでタバコを吸ったりtwitter見てたりしたわけで、ふらふらと散歩なんかしていると他にも結構テントを貼ってキャンプをしている客がいるわけで、それぞれ石で窯をつくり薪をくべて火をおこし、あるいはバーベキューをしたりあるいはレトルトのカレーを食べアウトドア感を演出していた。友人はチャーシューと鶏のクリーム煮込みをつくるとのことで借りてきたダッチオーブンを火にかけ料理を披露した。手が込んでいてなかなかの良さがあるでネイチャーだ。

 

散歩をした際に見かけたのはムール貝をフライパンで焼いていたソロキャンパーであり、なかなかクセが強いな、と思った。 たぶん探してみると「キャンプでそれかい!」みたいなクセが強いキャンプメシを展開している客もいるだろう。掘り下げてみると面白いものがでてくるかもしれない。それがネイチャーだ。

 

クセが強いキャンプ

日が暮れて夜。ご飯を食べた後となるとお酒を飲む、おしゃべりをする、火を見るぐらいだ。

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ふらっと散歩していると、スクリーンを張り出しドラえもんを上映しているキャンプ客がいた。大自然の中でテクノロジーの産物ドラえもんを見るというアンビバレンス。キャンプの楽しみ方は人それぞれでネイチャーだ。

 

寝袋で寝る

全然余裕でいける。夏場とか暑くなったり虫が多くなってくると不便なところも出てくるのかもしれないネイチャー。

 

キャンプ場のまわりも良さがある

特にキャンプ場の外をふらふら回ったわけではないけれども、温泉が出ており夜と翌朝の二度訪れた。屋内と露天、浴槽は2つだけれども、自然の中でお湯につかれて非常に良さがある。肌がヌルヌルとなるタイプのアレだ。シャンプーやボディーソープも兼ね備えられており、タオル類も売られているので手ぶらで行くことができる。河川敷のキャンプをしている大学生たちがたくさんいて良さがあるな、と思った。すっぴんとはネイチャーである。

 

あと帰りしなに駅周辺を歩いていたらば自家醸造のビール屋さんがあり、一杯いただいたところ大変良さがあった。友人は「もうちょっと一人で飲んでいくわ」ということでここで解散となった。

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こうしておれはキャンプ童貞を捨てた。享楽がそこいらに溢れており都会の喧騒。テクノロジーにより人の生活はより便利になり相席居酒屋。女性は食べ放題飲み放題が無料で提供され、男性がその費用をまかなうビジネスモデル。ただ飲み食いしたい女性、出会いたい女性、出会いたい男性といった属性に分けられ出会いたい男性は出会いたい女性を見定めアプローチをかけるのだろう。

 

たまには自然に触れ、たまには相席居酒屋に行こう。 相席居酒屋で今度キャンプに行こうよ、と口説こう。そして童貞を捨てよう。

歌舞伎町のテルマー湯が最高な話

「なんか今日ついてないなぁ」とか、「今日はなんかアンラッキーが重なるぞ??」みたいな日が君にもないだろうか。そんなときに自分を勇気づけてくれるのはもちろんダニエル・パウターのBAD DAYだ。「バッド・デイ〜ついてない日の応援歌」という最高にクソな邦題がついたタイトルで知られるこのヒット曲を懐かしむ君もいるだろう。

 

 

これがもう10年も前の歌かとなるとつくづく年取ったなぁとか思う。

 

さておき、ついてなさ、アンラッキーというのは時に重なることもある。昨日まで世間は三連休であり、おれも例に倣い充実した三連休を過ごしていたわけではあるけれども、初日、二日目は予定があり充実した形で過ごしていたのだけれども、三日目は特にすることもないぞということで、そうするとおれはその時間を消化するためにパチンコやスロットに行ってしまう傾向にある。勝ったらまぁいいけれども負けたら味噌を舐める生活に突入するのでここはグッとこらえたい。

 

そこで歌舞伎町にあるスーパー銭湯テルマー湯に行くことにした。テルマー湯がオープンしたのは去年の夏ごろだ。新宿が家からほど近くチャリですぐ行ける距離なということもあり、オープン前からなんかあそこにスーパー銭湯ができるらしいぞ、オープンはいつよ、みたいな情報を聞きサイトをチェックしていた。いざオープンすると、思ってたよりちょい高いなぁという感じがしたけれども、今まで2回ほど足を運んでいる。

 

 

ちょい高いなぁ、という感覚は人それぞれだけれども、たとえば入館料や飲食代を入れても4,5000円あれば十分だ。パチンコやスロットでサクッと2万円負けるのであれば、それだけで何回テルマー湯行けるんだよ、と後悔する日もある。たとえば昨日もじゃぁテルマー湯行く前にちょろっとスロットでも打つか、と思ってスーパービンゴという台でサクッと1万負けてテルマー湯に出向いたのである。結局行ってしまったんだよ。ついてない。クソが。 

 

 

気を取り直してテルマー湯を紹介しよう。詳細は店舗のホームページを見ていただければ十分なのだけれども、毎日伊豆から取り寄せている天然温泉や炭酸泉を歌舞伎町のど真ん中で堪能できるのは最高だ。地下のラウンジではテレビがそれぞれついたリクライニングシートが並んでいる。リラックスムードが漂う音楽が静かに流れ、爆睡するのには持って来いだし、各席に電源が備わっているのでPCを持ち出し仕事をするのもよいだろう。レストランは和食と多国籍のお店が構えられておりごはんもおいしい。去年行った際には入っている客は少なく、炭酸泉や露天風呂を独り占めするタイミングもあったぐらいなのだけれども、昨日はいくぶん増えていてよかった。もっといろんな人が行けばいいのに、と思う。他と比較してみると高さに見合う分だけサービスが行き届いている。新宿を怖がることなんか無いさ。

 

で、まぁ昨日は銭湯神として知られるヨッピーさんとテルマー湯に行ったんだけど、月に一度とかなんとかのビンゴ大会の催しがあったんですよ。カウンターでビンゴカードを1枚100円で販売しており、一人あたり上限3枚まで購入することができる。聞く所によるといいものが当たるぞ?と。それなら参加するしか無いなっつってお風呂を上がってヨッピーさんとビンゴカードを上限である3枚ずつ購入。100人ほど並ぶ会場の最前列に座る。賞品はテルマー湯の入場券や優待券のほかにも家電製品やスカルプ商品など、いろんな賞品がならんでいた。たぶん50個はあったんじゃないかな。

 

予想というのは案外当たるもので、もうなんかビンゴカード買った時点で薄々わかっていたのだけれども、たぶんヨッピーさんはビンゴするだろうし、おれは当たらないんだろうなと。なぜなら直前でスーパービンゴというスロット台で負けたからね。

 

ビンゴが始まる。序盤は淡々と進み、引きの強い綱引きチャンピオンみたいなずんべらぼんは7,8巡目ぐらいで阿呆のような顔をして「リーチ!リーチ!」などと叫んでいる。「ここからが長いんだぜ?」なんて思いながら嘲ることしかできなかったけれども、かたやおれは3巡目まで中央以外、何一つ空いていなかった。ビンゴカードを3枚も持っていて3つとも3巡目まで開かないのはなかなか無いだろう。ビンゴが進むと当然ビンゴをする人もちらほら出てくるのであり、それを見ながらおれ、

 

 

そうしているうちに案の定銭湯神はビンゴを引き当てて優待券をゲットしている。

 

 

そうなることはわかっていた。しかしまぁ3枚も持ってるんだし、一個ぐらいはまぁなんとかなるだろう、と楽観していたけれども、結局賞品が無くなるころにリーチもしていなかった。3枚が3枚ともリーチにもならないのである。もっとおれはこう「35番〜〜〜!!!!」とか「34じゃない〜〜〜〜!!、くぅ〜〜〜〜〜〜〜ッ!」言いたかったわけよ。それでしょ。ビンゴってそれでしょうよ。リーチの状態こそがビンゴの本質でしょうよ。リーチになった後の期待感やそれに伴うもやもや感、それが一番のポイントでしょうよ。そこにすら至らないってどゆこと??思えばビンゴにいい思い出なんか無いんだ。結婚式とかなにかしらの会合でビンゴが催されたときなんかでもビンゴしたこと無いからね。スロットでも負けるし。ビンゴとは縁が無いのさ。おれも一度はアホみたいな顔をして「35!!35!!」みたいな事を言ってみたかったさ。でもそれは儚い夢でしかないのだろう。

 

しかしビンゴだけでは終わらないのがテルマー湯である。ビンゴに至らなかった君や僕のために、司会とのじゃんけん大会が救済措置として催された。これだな、と。おれが魅せるところはここだな、と。3枚も持っていてリーチにすら至らなかった汚名を返上するにはここしかないな、と。誰よりも早く立ち上がり天高く拳をつきあげる。

 

 

まぁそうなるよね、と。

 

しかしここで終わらないのがテルマー湯である。さらなるさらなる救済措置として再度じゃんけん大会を催してくれたのである。どんなに困難でくじけそうでも、信じることは必ず最後に愛は勝つということである。ここだな、というタイミングって自分でもわかるものである。あー、全てはこのための伏線だわ、と。そういうのがわかるじゃないですか。勝つ気しかしないおれ、意気揚々と誰よりも早く立ち上がり天高く拳をつきあげる。

 

 

まぁそうなるよね、と。

 

それで本当に全ての催しが終わって意気消沈、ごはんを食べにレストランに入った所、オーダーが通っておらずけっこうな時間待たされたし待たせてしまった、というのもついてなかった。やはりついてないことというのは連鎖するものである。でもいいんだ。なぜならテルマー湯は最高だから。温泉もごはんも施設もサービスも最高だからさ。ビンゴ大会だって催してくれる。君もテルマー湯に行こうぜ。一緒にビンゴ大会に参加しよう。その時には、おれはせめてリーチぐらいにはなってみせるさ。本当だよ。 

痛ドルのライブが楽しかった。

痛ドルのライブが楽しかった。

 

「痛ドルのライブに行かない?」と言われたのはたしか先週あたりであり、なるほど痛ドルというのは文字通り痛いアイドルであるということは明白である。痛ドルってのがあるというのは少し前から知るところではあったけれども、実際にそのライブやイベントに行ったことはなく、しかし痛いアイドルというものはどういうものかと問われるとイマイチピンと掴めないものがあり、というのは「痛い」というのがどういうタイプの痛さなのかがぼんやりと、たとえば超絶ぶりっ子が度を越しているとしたらばそれもまた痛いと言えるアイドルであったり、たとえば夢遊病のような状態でステージにあがっているアイドルがいたとしたらばそれもまた痛いアイドルである。痛いというものにもいろんな痛さがあると思われ、どの領域の痛さかを知らないのであった。では逆に痛くないアイドル。すなわちアイドル。いや、痛ドルも痛いアイドルでありアイドルである。痛ドルとアイドルの間は決して逆説ではなく、包括で考えるものとしたい。というのは置いておいてその痛くないアイドルに対する見地を持っているのかというとそうでもなく、まぁなんかその辺で流れている程度にはAKBやももクロの曲は知ってはいるけれども、特に生で見ることやライブに行きたいという思いも特に持たず、以前一度だけチケットが余ったからとでんぱ組.incのライブに誘われお邪魔した程度である。そこで冒頭の「痛ドルのライブに行かない?」と聞かれたおれ、返事はもちろん「行く行く〜〜」である。

 

 

1月9日の土曜日は正月休みが終わり仕事始めの週を終えた連休明けを越えた土曜日である。社会に対するリハビリ状態からなんとか仕事を乗り越えたところで待ち受けていたのが痛ドルライブであり、場所は西川口ハーツ、ライブハウスである。新宿から赤羽で乗り換え西川口駅からすこすこと歩いて会場に向かうと今回のイベントタイトルが掲出されていた。「パワポ×ライブによる痛ドル体感型セミナー」。今回の主体はライブではなくセミナーであった。副題は「痛ドル我が人生〜痛さとすっぱさと心強さと〜」とありセミナーである。何が開催されるのかは完全に謎であり、フロアを見渡すかぎりほぼ男性である。壁にはパワポで作成されたスライドが表示されておりプレゼン形式で進むことが想像される。ビールでも飲みながらとロビーに出て開演を待っていたらば青いTシャツを着た恰幅のよい女性がいたのだが、のちに知るところの参加しているアイドルの方であり、アイドルがその辺を歩いていたのも距離の近さを感じた。

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いざステージが明るくなり痛ドルの杏音、飴姉妹来世、司会の松嶋三郎による前説を経て最初の演目、オープニングアクトである。スクリーンに打ち出された文字は「結界式」。結界式を行うのはあやニャンコなる痛ドルであり、パワポには今までの経歴がつらつらと書き連なっていたけれども、言っていいのか悪いのかわからないような内容だったので割愛するのであり、そのあやニャンコがなんかようわからんけれども結界を張るとのことで、全身黒い出で立ちで登場し、取り出したのは音叉。ギターなんかのチューニングに利用するような音叉であり、いや、音叉と言ってよいのかわからないけれども、つまるところの音叉をチーンと鳴らし結界を張るのであり、もうこの辺りから異様である。なんか何キロヘルツがどうとかつらつらと説明をしていたけれども全然おぼえてない。囁くようなかんじで「はいっ」「はいっ」と言っていた。結界を張った後には幸福の実であるところの梅干しを食べオープニングアクトである結界式は終了。なんなんだ。歌などは一切なく音叉を鳴らして終わった。

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ということで先のパフォーマンスをライブとカウントしないのであればここからライブのいざ本番であり、歌ったりするのかなぁと期待をいだいていたところ、続いて登場したのは先ほどロビーで見かけた青いTシャツを来た恰幅のよい女性であり、名はもなみんである。なるほど。痛ドルである。さて何をするのかと思ったらばおにぎりとシュークリームの早食いであった。スライドで表示されたプロフィールによると3分でうまい棒を何本食べるかの記録を持っているとかなんとかであり、ニコ生で早食いなんかをしているようである。もなみんは今回他のアイドルと早食い対決をしたのだが、おにぎりとシュークリームをそれぞれ2口3口で放り込むもなみんに敵うわけもなく圧勝。この辺りから「アイドルとは?」という意識が脳裏をちらつくのであり、哲学の世界に入ってくる。ここまで歌や踊りは無い。と思ったらばここから歌である。なんか普段は歌わないらしいのだが今回は歌うとのことで、天城越えのイントロが流れだす。と思ったらなぜかMC松嶋が現れもなみんとがっぷり四つ。いきなり相撲が始まりもなみんが松嶋を豪快に投げ飛ばす。そして天城越えの替え歌を歌うというなんかもう書いててわけがわからない状態に陥っていた。ここまでおれの想像していたアイドルライブはゼロである。

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続いてかものなつみ。クリエイター兼アイドルとのことで、ヴィレヴァンなんかに売ってるしねしねグッズをつくっているクリエイターとのことである。彼女はステージでぜんぶおばあちゃんであるところのミチコが悪いとひたすら叫びなぜ私を産むような母を産んだのかと問いかける歌なんかを歌いちらした挙句フロアに降りては転がりまわり、なんというかオン状態とオフ状態が交互に表れる完全にアッチなかんじだった。彼女はライブ終了後、「お父さんが迎えに来た」と帰っていった。

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続いて前説ともなみんとの早食い対決にも参加していた杏音である。痛ドルの厚化粧担当でありなるほどキレイなお方である。歌が超絶うまく、ここに来てやっとこさちゃんと歌を歌うのであり、やっとちゃんとしたライブ感が出てきた。スマホでライブを配信しようとしていたけれどもううまく固定できず、フロア最前列で見ていたもなみんがスマホを受け取り撮っていた。出番が終わったアイドルがフロアに出てくるというのがアイドルのライブにあるものなのかわからないのだけれども。

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続いては痛ドルの主催であるところのさちこがステージに。プロフィールによるとGカップであり、なるほどグラビアアイドルもアイドルである。アイドルにもいくつかの種類があることを思い出さされた。急遽欠席となったアイドルに変わってステージに立つとのことでアニソンを歌う。こちらも歌がうまくアイドルのライブっぽく進んでいたらばいきなりシャツを脱ぎだし水着姿に。フロアに降り客の男性を捕まえるとTシャツをまくりあげ、その腹を和太鼓を叩くようなパフォーマンス。ペチペチと腹をたたかれた男性は昇天するのでありちょっとうらやましいなと思ったのはナイショである。

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続いて前説に登場した飴姉妹来世。やっと、というと失礼にあたるかもしれないのだけれども、やっとアイドルっぽい、たぶん「アイドル」と聞くとこういうのかなぁと想像するようなかわいらしいアイドルである。よくおしゃべりするかんじであり歌って踊ってライブが進む。これだよ、これ。これがアイドルのライブだよ。知らんけど。昼間は学童保育の先生をしていると言っていた。

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最後にステージに現れたのは少女☆タコサム。振り付けやダンサーをしている男性でありセーラー服から筋肉がついたガタイが浮いていた。ステージではキレッキレなヲタ芸を打ったりステージに降りてはちくわを配ったり、男を捕まえ口移しでちくわを食わせるなどをし、フロアは阿鼻叫喚かつノリノリアゲアゲとなる。ちくわをもらえなかったのが悔やまれる。

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さて、ライブはここで終わりである。最後は結界式に登場したあやニャンコが登場し、ステージでポエムを読んだ。あんまおぼえてないけどなんかおじいちゃんとおばあちゃんがリュックを背負ってどうのこうのみたいなポエムだった気がする。ポエムを最後に痛ドルのライブは終了した。なんなんだ、と。果たして痛ドルとは。プレゼンのスライドで、痛ドルとは「容姿やキャラクターが個性派すぎてアイドルなのにイタさを売りとしているアイドル。また集団のこと」とあった。なるほど。ライブに来たのは初めてだったけれども、そのパフォーマンスはどれも楽しいものであった。今回参加した痛ドル以外にもメンバーはいるとのことで、そのパフォーマンスもぜひ見たくなるのであり、イベントのペースはたくさんではないけれども、また次のイベントに行こうと思わせられるものである。次はなんか3月にプロレスをするとのことで完全におもしろくなりそうである。あとTシャツを買ったらチェキを撮ってもらえた。

 

痛ドルのライブが楽しかった。

無駄遣いをやめる。

無駄遣いをやめる。

 

「余計な物などないよね」と歌ったASKA覚せい剤で捕まっちゃったけれども、この「余計な物などないよね」というのも注目に値する部分であり、それは確かに過去の経験や体験から今をどうするか、どうすれば最善なのかが浮かび上がるというのは常である。しかしその経験も、たとえばやらかしちゃった失敗を悔い省みてNEXT STEP、ネクストステップ、次に同じような場面に出くわした際には、あ、そういえばこんなことあったなってかんじで思い出すことにより注意を払い同じ失敗を繰り返さない点では過去の失敗も決して余計な物ではなくなる。完璧な成功談であり素晴らしい。がしかし、ここで大事なのは先の例では、あ、こんなことあったなということを思い出し、記憶の引き出しを開け、そこにある余計ものノートを読み替えし次はこうしようと思いだした上でそれを実践したときにはじめて余計なものではなく有意義なものに昇華するわけで、その引き出しをあけない、そもそも覚えてないとなると余計なものは余計なもののまま積み重なりつまりは余計なものは余計なものである、と思うわけで、しかしASKAが歌うこの「余計な物などないよね」というのはその後に「すべては君との僕との愛の構えさ」と繋がるので、なるほどすべてっつっても君と僕の間にある物の中に余計な物はないよねってこと。それはあんなことでケンカしたよねとかその後の歌詞に出てくる「嘘やワガママ」なんかもそれは二人にとっては余計なものなんかではないんだぜということで、君は確かに僕を愛しておりとてもほほえましい二人ですぐに死ねと思うわけですが、たとえば二番では「君に逢いたくて逢えなくて寂しい夜、星の屋根に守られて恋人の切なさを知った」と歌っている。ここで注視したいのは「星の屋根」であり、つまりはこの男性は屋根の無いところに住んでいると考えられる。残念ながら東京では星の屋根というほど星が見えないので、場所としてはおそらく片田舎に住んでおり夜には空に一面の星が広がるのであれば合点がいく。都会の喧騒、通勤電車、物で溢れかえり物価、家賃、お酒、ドラッグ、ロックンロール、それら全て余計なもので、そんなことに気を取られても消耗してしまうだけであり、それならいっそ何も無い田舎で暮らすという生活にしたのであろう。つまりは今回の「余計なもの」というのは決してエモーショナルなものではなくガチなかんじであり、屋根も「余計なもの」として排除されたのではないかという一抹の懸念が抱かれる。「余計なものなんかにはならないよね」ではなく、余計なものを排除した結果として「余計なものなどないよね」、と言っている。つまりはミニマリスト。「SAY YES」というのも文章としてミニマルすぎる。要素を可能なところまで排除し、非常に端的で良さがある。これが下手くそなものであれば、「you say yes to me」 とか、「はい、って言ってくれ」と半角7文字で収まるものも長くなってしまうところをバッツリと「SAY YES」、二単語でまとめており余計なものを排除している。これは大変よい心がけであり、見習う点も多々ある。つまりは余計なものを徹底的に排除しようと考えさせれるものである。これは身にしみる思いをもたらすものであり、自分の身の回りの余計なものは無いか、余計な事をしていないか探した結果、まぁいろいろ思い当たる節はあるけれども、その中でやはり真っ先に排除したいのはお金の無駄遣いであり、まぁ端的に言うと無駄遣いをやめる。

 

もう1段落SAY YESで引っ張ってもよいかしらん(君はただ「SAY YES」)。先述の「SAY YES」では「このままふたりで夢をそろえて何気なく暮らさないか」と提案している。これこそ余計なものを排除した極致であり、まず「このままふたりで」。集合の最小単位である。排除と考えた場合にはこれはもう君と僕以外は何も必要ない、それ以外は全て余計なものである、という考えとなる。確かにおれも予定の無い土日なんかにはだれとも合わず声を発しない日なんかもある。その延長で、君といっしょにいたいんだから一人ではなく集合として最小の二人だとしても、何も必要とせず過ごすことは可能であろう。Amazonがあれば衣食困らず、二人以外だれとも接点をつくらずに過ごせるし。その最小単位二人で「夢をそろえて」である。これもミニマルである。余計なものを排除している、というのはお互いがお互いそれぞれ別方向を向いた夢を持ちその方向に勤しむよりも、同じ夢で揃えて向くほうが効率よいよねという話である。ミニマルがゆえにどちらかの夢が方向修正を強制されるのでありそれを受け入れる二人である。まだどちらが夢の修正を強制するのかは明かされていないので救いはあるけれども。つまりは余計なものを排除するためにどちらかの夢を強制する。余計なものを排除することを徹底している。そして「何気なく暮らさないか」である。これはおそらく誤字である。「何もなく」の誤字なのではなかろうかと推測する。「気」と「も」ってちょっと似てるし。「何もなく暮らさないか」である。物なんかいらないよね、と。二人いれば最低限のものだけでいいよね、と。屋根も無くていいよね、と。二人いるんだから、と。それだけで十分でしょ、と。ミニマルである。それを裏付けるように「このまま二人で朝を迎えて」とある。なぜ朝を迎えるのか。電気が無く真っ暗だからである。電気を引いてないからである。電気が引かれてないような田舎に住んでいるということである。電気代も余計なものとして排除されているのである。星の光で十分でしょ、と。月明かりがあるでしょ、と。このミニマルっぷりは見習いたい。余計なものを排除し、必要なものは何か、それだけあればいいじゃない、と。余計なもので溢れている昨今、果たして本当に必要なものは何なのか、自分が必要としているものはなんなのか、というのをやはり考えさせられざるを得ない。いざ我が身に立ち返り考えると無駄遣いが過ぎるんじゃないかと反省してしまうのである。まぁ端的に言うと無駄遣いをやめる。

 

ではおれがしている無駄遣いとは何か考える。つまりはそれにお金使わんでもええんじゃないの、というものである。家計簿をつけようとiPhoneアプリZaimを駆使しようと思っては三日坊主で挫折すること十数度、手がかりになるのは何もないけれども、まぁなんかこれにお金使ってるなというのは簡単なぐらいにわかりやすく、家賃光熱費通信費用を除くと、ごはん、お酒、遊び、ギャンブルである。さてどれを省くことができるのか、どれが無駄遣いなのかを検証しよう。まずごはんである。たまに興が乗じたときに自炊なんかはするけれども基本昼夜外食である。果たしてこれは無駄かどうか。そんなこともなかろうと思われる。時間効率的にも栄養バランス的にもカットしないほうが得策なのは自明であり、バランス良い外食を食べるほうが心身ともに健全である。たとえば夜遅くまで仕事して家に帰って自炊となるとなかなかタフでありその分睡眠時間も削られる。帰り際に中華屋に寄って野菜や肉、味噌が入ったようなものを食べるほうが健全も健全ではなかろうか。つづいてお酒。これは次項の遊びとも深く結びつく。やんわり酔うというのは楽しいけれども、アル注ではないおれ、お酒の本質はアルコール分ではなくコミュニケーションや空間である。お酒をのみふんわりしたところでくだらない話しをしてゲラゲラ笑ったり、議論したり、会話相手のことを深く知ったり、空間に落ち着き心の安寧を得たり、ボリュームマックスの音楽に乗りゆらゆらと揺れて音楽と一体化したり、そういうものがお酒である。とすると、そりゃもちろん量の程度はあるけれども、べろべろに管巻いて人に迷惑かけたりなんかすると目もあてられないけれども、許容範囲内であればやはりこれも余計なものではないのではなかろうか。続いて遊びである。遊びというのは難しく、どこからどこまでが遊びとカウントされるのかも曖昧なところはあるけれども、次項のギャンブルを除く娯楽と考えると本を読んだりコーヒーを飲んだりデートをしたり映画を見たりゲームをしたりどこか牧場に出かけたりテルマー湯に行ったりというのも遊びの範疇でカウントしてよいかと思われる。本や映画は仕事にもつながりコーヒーは本を見るための必須アイテムでありデートはセックス、つまりは精神衛生を安定させるためには必要なものであり、どこかに出かけることもリフレッシュや知識の範囲を広げるなど全ては糧となり、冒頭の通りの余計なものなどないよね、となってしまう。やはり余計な物などないのかと思うけれどもおっといけないまだ最終項が残っている。ギャンブルである。自分で言うのも憚れるほどにこれこそ無駄遣いである。そんなことはわかっている。救いがないのである。序盤で「あ、こんなことあったなということを思い出し、記憶の引き出しを開け、そこにある余計ものノートを読み替えし次はこうしようと思いだした上でそれを実践したときにはじめて余計なものではなく有意義なものに昇華する」と書いている。ギャンブルにおいてはこれが通用せず無駄も無駄。余計なものすぎるのである。たとえば今日負けた、ちくしょうやってらんねぇパチンコはやめてやる、と息巻くけれども翌週、ひどいときには翌日、さらにひどい時には当日中に店舗を変えついついフラッと寄ってしまう辺りは中毒に近いものがあり目も当てられないのである。これを断ち切るには浮世から隔離される必要があるのではなかろうか。隔離とはすなわち東京を離れることである。やはり東京は誘惑が多すぎる。光るネオンに吸い寄せられるおれは蛾みたいなもんよ。そこで散財をしてしまう。無駄遣いである。無駄遣いにも程があるのである。端的に言うと無駄遣いをやめる。それはつまり東京を離れ、星がきれいな田舎に出て、星の光を頼りに屋根の無い家に住み、電気も引かず、夢を持ち、何気なく暮らすことである。まぁ端的に言うと無駄遣いをやめる。

 

無駄遣いをやめる。

土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

 

1日の始まりはいつからかと考えるとひとつの考えとしては0時をまわったところ、日付をまたいだ1日進んだところ。これは圧倒的にかつ世界的に間違いなく絶対的な1日の始まりではあるけれども、我々は人間であり生活という点からすると0時は1日の活動を終えるあたりの時間。やはり1日の始まりはというと眠りから覚めるた時間。朝起きたところが1日のはじまりであり眠りにつくところが1日の終わりであり、では1日の始まりに必要なものは何かというとあるいはシャワーでありあるいはコーヒーでありあるいはあさが来たでありあるいは食前のお薬の服用でありおれはその全てである。1日の始まりというのはたいていの人はルーチン、カタカナに疎い人のために日本語でいうと決まりきったムーブ、また出てきたカタカナのムーブをさらに砕くとルーチンとは決まりきった型であり、やることが型にはまったいるということである。さてここでおれの1日を振り返ってみると、7時半に起床しシャワーに入った後、コーヒーを淹れてあさが来たを見る、その後とくダネを見ながら髪を乾かしたりしながら会社に行く準備を整えコーヒーで食前の漢方とエビオス錠15錠を胃に流し込んだ後に家を出る、チャリに乗って恵比寿に向かう道中で代々木八幡宮に立ち寄り財布にある小銭を投げ入れ二礼二拍一礼、「ゲットマネー、ゲットビッグマネーyeah」と三回念じる。代々木八幡宮はなんか拝むところが3箇所あるからそれぞれ巡り都合9回「ゲットマネー、ゲットビッグマネーyeah」と念じる。ちゃんと鳥居にくぐるときは礼をして代々木八幡宮を後にしたらば恵比寿へ。撤去を恐れ恵比寿の駐輪場に自転車を止めたらば数日に一度はマツキヨでフルーツグラノーラを買いセブンで牛乳を買う、すなわち朝ごはん調達するのであり、つまりは会社がある日はフルーツグラノーラに牛乳を入れたものを朝食とし、オフィスでモサモサと噛み砕いている。我々サッラリーマンにとっては週の内5日会社に行くということもありライフスタイルのメインパートは平日が占めている。ということは休みであるところの土日はイレギュラーとなる。ではそのイレギュラーの土日の朝は何を食べればよいかというと、会社に行けばフルーツグラノーラと牛乳を完備しているけれども土日に朝ごはんを食べに会社へ行くアホはいないのであり土日用の朝ごはんを調達する必要が出てくる。まぁ端的に言うと土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

 

たとえば君が中学生のころ、学校に体罰教師の一人や二人いなかっただろうか。おれがいた中学校は時代もあり体罰教師が100%であり、何か悪いことをすると余裕で殴られる環境ではあったけれども、その中で一時期所属していたバスケ部の監督が言っていたのは「朝ごはんはなんでもいいから少しでもいいから食え。ゆでたまご一つでもいいから食え」と言っていたことを憶えている。殴られたことはもっと憶えている。横山やすしに似ているからヤスと呼ばれていたその監督が叱咤激励のために「やる気がないなら帰れ!」と言った際におれが本当に帰ったら翌日ボコボコに殴られた。まさか本当に帰るとは思っていなかったのだろうが本当に帰ったときにどう対処するか考えてなかったがゆえにその解決を殴るということでしか表現できないなかなか良さのある監督だった。今はホームレスをしているかもしれない。という話しは置いておいてこの監督の言うことも一理あり、おれの場合は朝ごはんを抜くとどうにもこうにも一日何もできない体たらくになってしまう。全ての言い訳を「朝ごはん食ってないから」で済ますほどになってしまい、仕事もせずまとめサイトyoutubeしか見ないようになってしまい、仕事も進まず時間だけが過ぎ、そして時間がすぎるのをただ待つことになってしまい生産効率が減少してしまう。生産効率が落ちてしまうとチームで動いている仕事は機能しなくなり売上は減少、士気も下がり会社全体に蔓延すると誰も働かなくなり、電話を誰も取らずコミュニケーションの機会を損失すれば納期も守らず顧客を失うことでまた売上は減少、赤字が膨らみ人員を削減するフェーズとなりリストラを敢行するか希望退職者を募るか選択を迫られる。やはり体面上希望退職者を募ったところ優秀な人から順に抜けていくが人員削減により当面の支出超過を防ぐことはできたけれども生産性もガクンと落ち売上も追いつかず経営はさらに圧迫。銀行に融資を断られ社会保険も滞納し苦肉の策として街金をハシゴ、資金を調達するがそれも自転車操業となりそのうち首もまわらなくなりオフィスには街金による「金返せ」等の張り紙が貼られテナントビルから追い出される。お賃金も滞納されると当然お家賃も払えず滞納の末におれも西新宿の家を追い出され、ふらふらと新宿中央公園へ行き今日はここで夜を明かそうかと準備をしていると人が近づく気配が、目をあげるとそこにはヤスがいる、ということになってしまう。かくしておれは朝ごはんを食べないとどうにもいけないのである。まぁ端的に言うと土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

 

しかし一方で朝ごはんを食べない人ライフスタイルの人もいる。これはもう前述のルーチンの話しであり他人がどうこう言う類の話しでも無く、どちらがよいのかグーグルってみたらば人それぞれとか出るしなんか体内時計がどうとかこうとか書いてるけどそこを議論するつもりはない。調べたところ20~30代の男性の約30%は朝食を食べていないということでその30%の既婚率のほうが気になる。おそらく未婚であろう。朝食べない夫婦とかなんかいやだね。朝はなんかこう、窓から白い太陽光が射して、小さめのテーブル、ローテーブルではなくテーブル。ちゃんとテーブルクロスが敷かれてね。テーブルには対面に椅子が2脚置かれて、向かいあって朝食を。パンかごはんか。やっぱりパンでしょうが。朝はパンですよ。食パンにジャムですよ。いちごかブルーベリーか、ピーナッツバターでもいいね。たまには「こんなジャム買ってきたんだ〜〜」みたいなのがあったりね。それが超絶おいしいの。食べたことない味みたいな。グラスに注いだ牛乳を飲みながら。イライラしないためにカルシウムも。たまにフルーツなんかもあってね。キウイとかオレンジなんかがいいね。ビタミンもちゃんと取って。食べ終えた後はコーヒーを淹れてさ。インスタントみたいな粉じゃなくてドリップよ、ドリップ。藤岡弘、みたいなコーヒーの淹れ方してさ。これもまた「こんなコーヒー豆あったよ」とか「どこどこでコーヒー豆買ってきたよ」とかあってもいいね。テレビをつけるかなんか音楽にするか。そうなると音楽かな。レコードでクラシックなんかをかけよう。実家に親父のレコードがわんさかあるからそれを持ってきてさ。それを毎朝かけよう。なんかモーツァルトとかバッハとかなんかいろいろあるよ。窓から射す太陽の光とテーブルとパンとフルーツと牛乳とコーヒーとパッヘルベルと。そういう朝にしよう。とても素敵な朝さ。世界が光り輝くような一日の始まりさ。でもそんなものは全て妄想であり世界にそのような朝はないのはわかっていて、あるのはフルーツグラノーラマクドナルドであり、まぁ端的に言うと土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

 

ソーセージマフィンとアップルパイで200円である。圧倒的に安い。コンビニでパン2つ買うより安いやんけということであり、しかもおいしいのである。ソーセージマフィンの塩気のあとにアップルパイの甘さと味覚を翻弄するにはあまりあるのでありさらにはアップルパイは外サクサクで中トロトロである。マクドナルドの低迷が続いている昨今ではあるがそれはやはり昼以後のなんとかバーガーとかそういう時間帯の話しであり、朝のマクドは神である。上述の200円で完璧であるがさらにハッシュドポテトやホットケーキ、塩気甘みのバリエーションもあり、食べたこと無いけどビッグブレックファーストとかいうのもある。でもそれも高いからやはりソーセージマフィンとアップルパイである。朝のマクドナルドは人も多く、レジ前には常に列をなしているのはやはり流行っているからである。マクドナルドは朝の数時間だけ生きて、また輝いているのである。他の時間帯の経営策は経営陣の力量が問われるところであるのでどうにかがんばっていただきたい。昼の経営がうまくいかず朝に影響するのは避けて欲しい、というのはやはり土日の朝にはソーセージマフィンとアップルパイを食べたいから。朝が朝である時間は短く儚い。ゆえに光り輝く。24時間営業のマクドナルドはいらない。朝の3時間だけでいいや。どうでもいいけど。となると後は家の近くにマクドがあれば完璧である。幸運にもおれが住まうところから歩いて5分ぐらいのところにマクドがあり、地盤も盤石である。マクドナルドが家の近くに無いのは悲劇である。あとは中華料理屋がほしい。松屋はいらない。というのは置いておいて土日の朝はマクドナルドである。お持ち帰りで。タバコ吸えないからね。喫煙席が無いマクドナルドが増えて残念である。マクドナルドなんて朝マックかコーヒー飲んでタバコ吸うところなんだから喫煙席の完備は必須である。必要なのは嫌煙ではなく分煙である。JTのキャッチコピーであるところの「吸う人も吸わない人もここちよい世の中へ。」である。まぁ土日の朝に限ってはどうでもいいや。おれはソーセージマフィンとアップルパイが買えればいいだけだから。まぁ端的に言うと土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。

 

土日の朝はソーセージマフィンとアップルパイを食べてる。