9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

『中庭の出来事』恩田陸:感想

冬場の朝は空が白む時間が遅い。あるいは空が白む時間を朝とするなら朝が来る時間が遅いのであって、「冬場の朝は空が白む時間が遅い」という表現も間違いであり「朝が来る時間が遅い」としないといけない。朝5時半起床を毎日の目標としているおれにとっては、それはもちろん目標であって6時に起きたり6時半に起きたりすることもあるけれども、つまりは同じ5時半でも夏場は明るく冬場は暗いのは致命的だ。目覚ましが鳴り響くタイミングでうっすら意識が開ける際に、世界が明るいか暗いかで朝を無意識に判断している。直感的に100%世界が暗いと朝は明けておらず、明るいと朝であって、つまりは寝覚めに関わってくるのは当然だ。

 

 

良いことと悪いことは交互にやってくる。たとえば今朝は寝覚めが良く、5時半に設定していためざまし時計とiPhoneのアラームではっきりと起床することに成功した。準備を整え自転車を繰り出す。信号も青が続いてスムーズに山手通りを下ると職場の恵比寿に近くに着くのは7時。駐輪場に自転車を置いていつものPRONTOに歩く。早い時間は精算機の近くの特当地が開いていて帰る際も歩く距離が短縮される。

 

例外というのは往々にして身に降りかかるものであって、たとえば飲食店の営業時間というのはめったなことでは動かない。個人の店舗ではあるいはお店の前に「店主体調不良に伴い本日はお休みです」と張り紙が貼られることさえめったにないのであれば、さらには全国に構える大手チェーンの店舗が開店時間をずらすのもごくごく稀。その例外の日にぶち当たる。今朝は開店が7時半になるという張り紙がPRONTOのドアに張り出されていた。80%女の子の字だった。

 

恵比寿というのはオシャな繁華街であって、PRONTOの並びにタリーズドトール、さらにはチェーンじゃないカフェも並んでいて、朝、コーヒーを飲む分には全然困らない。でもここでPRONTOが優位になるのはつまりは電源が完備されているということで、PCをカタカタしたいおれにとっては死活問題だ。

 

マーケティングによく使われる格言で「ドリルを買う人が欲しいのは「穴」である。」というものがある。つまりは欲しいのは製品そのものではなく、製品を使った結果どうなるか、製品を使った未来を買うというソリューションの話であり、ニーズの理解が必用とされる。あるいは会社に出向く9時ごろまでの2時間ばかりを電源無しで過ごせないかというとそうでもなく、MacBook Airでも2時間は全然持つのでその点は心配ない。でも充電が常にフルであるという安心感が求められるのであって、昨今、何事にも満たされない日々を過ごすおれにとってはせめて充電ぐらいは満たされていてほしい。おれは何もPRONTOのコーヒーを買っているわけではなく、フル充電という安心感を買っているのだ。

 

とはいえこの寒空の下を30分待つと凍えてしまうのでPRONTOを見切って足早にドトールに入店する。いつもPRONTOで見かける人がいるのは当然であって、彼も同じくPRONTO開いてないのでドトールに入店したくちだ。距離感というのもまた難しい。いつもの時間にいつも行くお店にいるいつもの人。いつものお店でさえ会釈も何も無い関係であって、知り合いでもなんでもない。それがひとつの「いつもの」が崩れた今朝はあるいは会釈チャンスだ。「おや?あなたも?」

 

会釈はしなかった。というのは、まだしていない会釈の距離を保つためであって、認知以上会釈未満の関係という、くるぶしぐらいの高さの関係は、それを越えると一気に打ち解ける可能性がある。会釈はひとつのブレイクスルーだ。そのままでいい。そっと離れた席に着席して、さて電源も無いしどうしようかなぁと思い至った後に、かばんから恩田陸の『中庭の出来事』を取り出し読書に浸る。

 

中庭の出来事 (新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)

 

 

恩田陸というとつい先日『蜜蜂と遠雷』で直木賞を受賞した作家であって、本屋さんに行っても文庫がずらっと並んでいる印象があり名前は知っていたけど今まで手に取ったことはなかった。ちょうど直木賞発表の前日に受賞なるか?みたいなニュースを見たので本屋さんに行って『中庭の出来事』と『夜のピクニック』を買い、先に読み始めたのが本作『中庭の出来事』だ。

 

コーヒーを飲みながら背表紙を見る。

瀟洒なホテルの中庭で、気鋭の脚本家が謎の死を遂げた。容疑は、パーティ会場で発表予定だった『告白』の主演女優候補三人に掛かる。警察は女優三人に脚本家の変死をめぐる一人芝居『告白』を演じさせようとする───という設定の戯曲『中庭の出来事』を執筆中の劇作家がいて…

 

とある。瀟洒(しょうしゃ)を読むのに苦労したけれども、山本周五郎賞を受賞した本作はどうやらミステリのようだ。

 

慣れないドトールの椅子に座って読み進めていく。本作はどうやら大きく3つの副題、ストーリーラインで構成されている。

・中庭にて

・『中庭の出来事』

・旅人たち

その中でも『中庭の出来事』は台本形式で、つまりは「女優2:(男にはまったく気付かぬ様子で)どういうイメージを持っているのかしらないけど、〜〜」といったように、主にセリフで構成されていて、本のタイトルでもあり副題のタイトルにもなっている舞台『中庭の出来事』の台本のようだ。

 

ページをめくるにつれて頭が混乱してくる。この台本がまたやっかいなもので、この演劇は劇を控える女優たちの演劇。演劇の中で女優が一人芝居『告白』を演じる。つまりは世界として、劇の中で開催されるはずだった演劇『告白』を演じている劇の中の世界と、その外の世界、つまりその演劇、『告白』の外の部分、たとえば女優たちのプライベートの話や取り調べの部分、これももちろん劇形式なのはそこまで含めた劇が『中庭の出来事』だから。そして、さらには背表紙にもあるように”───という設定の戯曲『中庭の出来事』を執筆中の劇作家がいて…”。つまりは劇じゃない部分。その劇を書いている人がいる世界がある。今の立ち位置がどの世界の話なのかが脳の中でぐるぐるとかけめぐる。

 

始業時間が近づくころになんとか最後までたどり着いた。劇中劇中劇と劇中劇と劇と現実。今自分がいる立ち位置がどこなのだろう。現実はどこだ。今いる位置が現実か虚構か、今見ているものが現実か虚構か。これ以上のネタバレはやめておく。

 

たとえば今スマートフォン、あるいはパソコンでこのブログを読んでいる。そしてそのブログの中でおれは今、朝のドトールで本を開き、ストーリーを読み進めて読了した。そして今、渋谷のカフェで充電が34%になったところでここまで書き終えて、アップロードする。君が見ているこのブログは現実だろうか、虚構だろうか。

 

 

中庭の出来事 (新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)