9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

隣の席に女の子が座った。

隣の席に女の子が座った。

 

40年に一度の大寒波が来ると持て囃されたこの土日は特に何事もなく寒いなぁ程度の普通の休みである。平日は月曜日から金曜日まで仕事に耐え、その余暇として割り振られる週に二度の休みは貴重だ。蓄積された疲労やストレスを解放し、また新たに月曜日を迎える活力を得るのである。

たとえば今日であればこれから家に帰って銭湯に行くだろう。大きな湯船で全身を伸ばす。普通のお風呂やジェットバス、露天風呂、冷たい水風呂と交互ににつかることによって全身を中から暖めこの寒い冬を乗り越えるのである。銭湯の帰り際に牛乳の1リットルパックを買い、家で半リットルほど飲み干す。銭湯によって水分が飛んだ体に牛乳が染み渡る。

至高であり冬である。冬だからこその銭湯である。早く銭湯に行きたい。体を冷やしきった状態で銭湯に行きたい。冷えたからだをお湯が包み込む。目を閉じて全身の力を湯船に委ねる。考え事をしたり何も考えなかったり。早く銭湯に行きたい。

 

さて、では今何をしているかというとおれ、新宿のカフェにいる。新宿のカフェでコーヒーを飲んでいるわけであって、とはいえ何もコーヒーを飲んでいるだけではなく、PCを開いて仕事をしている。すると、ずんべらぼんな君はかまぼこのような顔をして「君は休日であるこの日曜日にわざわざ仕事をしているのかい?」と尋ねるのかもしれない。答えはyesである。

休日出勤というとあたかも会社まで出向いてしないといけない印象があるのかもしれない。そんなことはない。たしかに会社からノート型のPCを割り当てられていない者は休日に仕事がこぼれた場合にはわざわざ電車を乗り換え会社に出向き、誰もいないオフィスで粛々と作業をする必要があるだろう。しかしたとえばおれの携わるウェブディレクターという職種はPC一台とインターネット通信があれば可能な作業が大半を占めている。つまりはノートPCとモバイルのインターネット端末があれば日本のどこでも作業は可能である。場所が違えど作業が粛々と行われることには相違ない。おれは今コーヒーを飲みながら粛々と仕事をしている。

 

喫煙室のドアが開いたのは数分前だった。普段タバコを吸うおれ、喫煙室に唯一ある電源からコードを伸ばせる隅のテーブルを確保し、PCのバッテリーがなくならないように電源とPCをしっかりと接続したうえでPCとにらみ合いながらカタカタとキーボードを打ち付けている。

ドア側の手前の席にはかばんと上着を置き、奥の席に座って壁にもたれながら作業している。ディスプレイに集中しているおれはわざわざ開かれたドアを見ることもなく引き続きカタカタと打ち込んでいる。

すると、入ってきたその客はおれの左側の席に荷物をおろしたのである。そしておれの真横、つまりは壁際に腰をかける。そうするとここで、どんな女性かしらん、好みのタイプかしらん、という思いが出てくるのは仕方のないことである。

とはいえ作業を中断してディスプレイから顔をあげて首を左に90度回転させてジロジロと顔を見回した日には完全に気持ちの悪いやつになるのであくまで冷静を装いディスプレイから目を離さない。ディスプレイから目は離さずに視野にかける。人の視野は上下左右120度と言われている。

ともなると、テーブルに置かれたディスプレイを見るふりをしている間は真横を捕らえることはできない。ぎりぎり服がちらっと目に入るぐらいだ。おそらく20代前半ぐらいでややキャバ嬢感のある出で立ちである。しかしこの視野では顔が見えない。人は見えないものを恐れ、見えないものがはっきりしないままには頭の中でその恐怖が増大する。これを解消するにはなんてことはない、顔を見ればいいだけだ。しかし顔を見たというのがバレると気まずくなるのは目に見えている。

どうにか他の何かを見ているフリをしてその視野を最大限に広げることにトライするけれど人間の視野には限界がありばれない程度では非常に難しい。

なぜ人間は馬のように左右に目がついていないのだろうか。馬の視野は350度もある。頭の真後ろの部分を除いて、ぐるりと周りを見渡すことができる。特に後方で動く物影に対して敏感に反応する習性が備わっており、後方から忍び寄る外敵にいち早く気づいて逃げることが可能となる。これは草食動物が生きるための本能である。そしておれ、人間は隣に座った女の子の顔を見たいという本能が備わっている。

おれは馬になりたい。隣の席に女の子が座ったから。

 

隣の女性はコーヒーか紅茶かわからないけれども、何かしらドリンクを飲みながらタバコをふかしてスマホをいじっている。何をしているかわからないけれどもキャバ嬢っぽいしどうせLINEかツムツムだろう。そしてその隣、おれはタバコをふかしながらPCをカタカタと打ち付けている。

あれから数分、依然動きはなくどんな顔なのかは見れていない。耐え難い時間というのは永遠に感じられる。ディスプレイ右上に写っている時計は1分が1時間にも2時間にも感じられる。おれはただ顔が見たいだけなんだ。そうしないとこの恐怖が解消されることはない。解消するのは簡単だ。左を向けばいいだけである。そんな簡単なことができないことがもどかしい。

できないのは物理的な話しではなく、社会的な問題である。世界の倫理が左を向くことはよせと警笛を鳴らしている。ブラック企業であれば「おまえさぁ、こんな簡単なこともできないわけ!?」と恫喝する上司もいるだろう。物理的には可能なんだ。でも社会的に無理なんだ。そう答えるしかないだろう。

なすべきゴールは簡単なことである。しかし条件が限定的であって、その条件が非常に厳しいのである。たとえば目の前にスイッチがある。そのスイッチを押せば仕事は終わりだ。物理的には簡単である。しかし条件がある。そのスイッチは花も恥じらううら若き乙女の前で局部を出してその局部でもって押さねばならないという条件がつくのだとしたらどうだろう。ある者にとってはボーナスだろう。しかしおれにとっては大問題でありとても成し遂げることは不可能だろう。

簡単なことができないというのはなぜこうももどかしいのだろうか。

 

コーヒーはとっくに飲み干し喉はカラカラである。冬の寒そうに加えて湿度が管理されていない喫煙室。煙が充満する喫煙室は喉にダメージを与える。

ここで思いつく。水を取りに行くと見せかけて一度喫煙室を出れば、次に入ってくる際には女の子とは対面、真正面、完全に自然に見ることができるのではなかろうか。そうとなったら思い立ったが吉日、善は急げ、好機逸すべからず。自然に、あくまで自然に席を立つ。ちょっと喉が乾いてきたなぁ、調子がおかしいいなぁみたいなアピールをするべく、う、うん、とさりげなく喉を鳴らすパフォーマンスまで繰り出す。ちょっとお水でも飲もかしらん、という前兆を演出するのは万全である。善は急げ、しかし急いては事を仕損じるである。必然性をつくりだす。おれが今、席を離れる必然性。それはこの喫煙室であり空調であり冬であり40年に一度の大寒波である。

さてさてといったかんじで首をコキコキならせて席を立つ。往復路である。往路では当然女の子は背中側になるので見ることはできない。復路である。必然性は復路に宿る。春に巻いた種はやがて芽を出し、そしていつかきれいな花を咲かせるだろう。往路がう、うんと喉をならすパフォーマンスであり、復路はきれいな花である。

喫煙室のドアを開け、スタスタとカウンターに向かう。「お水いただいてよいですか」と店員さんに告げ水が入ったグラスを受け取る。あとは復路が残るばかりである。鼓動は高まり心音が聴こえる。落ち着けと自分に言い聞かせる。お水を一口飲み込み深呼吸。緊張を隠しながら片手にグラスを持ち、喫煙室のドアを開ける。

 

物事にはタイミングというものがある。タイミングというのは複数人によって形成されるものである。つまり片方が何かした際にそのもう片方がどうしているかであって、これも因果、必然の中の物語となる。

かつてブラックビスケッツは「ズレた間の悪さも、それも君のタイミング」と歌っていた。やはりズレるというのは誰かと誰かの間に起こることである。タイミングとはそういうものだ。そしてタイミングというのはえてして悪いものであって、片方がこうしたタイミングで片方がそうしている。ビートルズがYou say yes, I say no, You say stop, and I say go go go. と歌ったように。

つまり何かというと、カウンターでお水をもらったおれ、喫煙室のドアを開けるとその女の子はガサガサとかばんを漁っているのであり完全にしたを向いていたってわけさ。こんなにも間の悪いことってあるもんかね、と神様に問いかけたくなったね。もちろん顔をあげるまで棒立ちになるのも気持ちが悪いので、そそくさと席に戻りまたPCをカタカタする。世の中うまくいかないもんだよ。

 

たとえばさっきおれは、自分が席を立つことによって女の子の正面に立った。あいにく結果は失敗に終わったけれどもそれもタイミングがズレただけであって、この戦術は間違いのないものだっただろう。

終わったことをねちねちとぶり返しても仕方ない。今おれに必要なことは前を向くことだ。次なる一手を考えないといけない。どうすれば必然的に女の子と正面に向かい合うことができるのか。仕事なんかそっちのけで頭をフル回転させる。全神経を集中して答えを導き出す。こんな難しい問題、大学受験には出てこなかったね。センター試験にも「必然性をつくりだせ」なんて問題は出ないからね。マークシートで答えたいぐらいさ。

 

えてして反対の事が起こるという事がある。というのは当然の話であって、何かというと、さっきおれは彼女と正面になるべく席を立った。では反対とは何か。簡単なことである。彼女が席を立ったのである。何か買うのかトイレかわからないけれども彼女は席を立ったのである。つまりは戻ってくる際に正面を向くのは必然となり、何気にディスプレイから顔をあげるだけで済むじゃないか。こんなにも簡単なことはあるだろうか。

さっきまでおれを捉えていた条件がなくなった。目の前のスイッチを手で押したらいいだけになった。必然があっちから迫ってくるだけになった。喫煙室のドアが開いた際に顔をあげればいいだけ。

イメージトレーニングをする。あくまでさりげなく。おや、誰か入ってきたな、的な雰囲気かな。もしくはあー、ちょっと仕事疲れちゃったな的に首をコキコキならしながら見るのがよいか。どれも正解だろう。必然性に不正解は無い。簡単なことだ。

彼女が喫煙室を出て少しの間が開いた。そろそろ戻ってくるころだろう。緊張を隠せ。呼吸を整える。40年に一度の大寒波を思い浮かべる。雪が降り風は強い。風雪が舞い上がる荒野。そこに佇むおれ。まわりには何もない。広大な荒野にひとり。月明かりに照らされる雪がとてもきれいだ。冷静になれる。足音が聴こえる。鼓動が高まる。もうすぐだ。ドアに手がかかる気配がする。そっとした音が鳴って、ゆっくりとドアが開く。