9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

春にして君を離れ

春。満開になった直後の雨で今年の桜が終わって晩春。春は新しい生活が始まる季節であって、いろんな初めてにあたる人もいるだろう。

 

最初にアガサ・クリスティを読んだのはいつだろう。

時期は覚えてないけど、たぶん高校か大学の頃で、読んだ本は『そして誰もいなくなった』というのは憶えている。

 

 

アガサ・クリスティというと言わずとしれたミステリーのビッグネームで、そういや読んだことないし一回読んでみようかっつって本屋の棚、ハヤカワ文庫の赤い背がずらりと並ぶ。とはいえ、どれを読もうかも特に決めていなかったのでタイトルで選ぶ。当時はクリスティについてはわからず、そういや『オリエント急行の殺人』ってなんか聞いたことあるなぐらいだったと思う。

 

じゃあその『オリエント急行の殺人』を読んだかというとそうではなかった。ずらりと並んだ赤い背を眺めながら目についたのは『そして誰もいなくなった』だ。なぜ選んだかというのも憶えていて、それはGLAYの『軌跡の果て』という曲が好きで、"今夜は誰かのブルースに酔いしゃがれた声に身を任せたい"といった歌詞がサビの素敵な曲なんだけど、その歌詞の中、あれはなんていうんだろ、たとえば二番目のサビが終わってあとソロの後にサビを何回かリピートするような曲のソロ前のやつ、Cメロ?そこに「そして誰もいなくなった」という一節があり、おや、と思って選んだ気がする。

 

 

そして誰もいなくなった (クリスティー文庫)
 

 

 

そして誰もいなくなった』は、少し前にテレビ朝日の二夜連続ドラマスペシャルで放送されたようで、見てないんだけど、まぁアガサ・クリスティの代表作の一つで、内容もめちゃくちゃおもしろくて、マジかよ、という感じになったのを覚えている。これを最初に選んだのはあるいは不幸だったのかもしれない。

 

そしてその後読んだものも順番は憶えていて、『アクロイド殺し』、『オリエント急行の殺人』を読んだはず。二作目に『アクロイド殺し』を読んだのもあるいは不幸だったのかもしれない。おれの中のクリスティのベスト・オブ・ベストは『アクロイド殺し』であって、読んだ後には椅子から転び落ちそうなぐらいマジかよだった。

 

 

アクロイド殺し (クリスティー文庫)
 

 

その後いくつか読んだ後に、『アクロイド殺し』を越えるものがなくて遠ざかっていたのかもしれない。

 

 

春。満開になった直後の雨で今年の桜が終わって晩春。春は新しい生活が始まる季節であって、いろんな初めてにあたる人もいるだろう。

 

最後にアガサ・クリスティを読んだのはいつだろう。

10数年ぶりに読んでみるかっつって本屋の棚、ハヤカワ文庫の赤い背がずらりと並ぶ。とはいえ、どれを読もうかも特に決めていなかったのでタイトルで選ぶ。

 

春にして君を離れ』

 

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

 

 

初めて読んだ『そして誰もいなくなった』やベスト・オブ・ベストの『アクロイド殺し』、それよりもおもしろいものは正直期待していなかったけれどもまぁちょっとノスタルジックな気持ちと季節がぴたりと来たので読んだところやばかった。

 

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダットからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチックサスペンス

 

クリスティのミステリーというと、事件が起こって、そこに居合わせた探偵ポアロミス・マープルが解決するというシリーズ者が多いけれども、本作はそのシリーズではなく、一人の女性が主人公の愛の話。

 

ミステリーにおいてはネタバレというのは厳禁であるけれども、本作においてはネタバレというのは存在するのかどうか疑わしい。シリーズ者でもなく事件が起こるわけでもなく、ということは解決するという話でもなく、誰も死なず誰も解決せず、一人の女性が自分と向き合うという内容のこの話は、とはいえ完全なミステリー。

 

この物語を読んだ人は、あるいは悲しくなるかもしれないし、あるいは不愉快に思うかもしれないし、あるいは憤慨するかもしれないし、あるいは絶望するかもしれない。なんなんだこれは。

 

4月。春にして君を離れ。彼を見なくなったのはこの4月からだろう。

 

たとえば普段、それは今、なう、今こうして文字を打ち込んでいるリアルタイムで左様であるのは毎朝職場近くのPRONTOに開店時間の7時近くからコーヒーを飲み、本を読んだりこうしてクソブログを書いたりしてるんだけれども4月、春。

  

春というと出会いと別れの季節。出会いや別れというのはあるいは一対多の場合もあるけれども、当人に細分するとつまりは二人の間の話であって、つまりは特定の集団の中で起こるものであって、それはたとえば学校であったり職場であったり、あるいは上京する大学生を持つ家庭かもしれない。この場合は別れではなく離れと表現するほうがしっくりくるかもしれない。というか全てにおいて別れではなく離れと表現するほうがよいのでは説。

 

その集団というのは特に密な集団で起こるわけでもなく、普段生活する範囲というのは何かしらの共通項で括られる、それはたとえば近所のスーパーであったり駅であったり、同じ行動圏内で同じ行動をするのであれば特にコミュニケーションを取るような関係ではなくても同じ集団に入るものであって、つまりはPRONTO、このお店でもこう毎朝来ていると同じ人が同じ席に、というのはどこでもある風景だろう。

 

PRONTOの喫煙階、窓側のテーブル席と壁側の片面ソファー席、ソファー席の端を席とするのは片方に人が来ずに挟まれることが無いのと、アトレが開ける窓、恵比寿駅から出てくる人がわちゃわちゃと出てくる風景が望める窓側、その右端に陣取るおれと左から二番目を陣取るおじさん、彼はいつもテーブル上にPHPだったりPythonだったりプログラムの書籍を置き勉強していた。序盤は本を読んでるけれども早々にでっかいタブレットでパズドラをはじめる。勉強しているところを見たのはほぼ無い。

 

とはいえこうも毎日顔を合わせると顔を覚えるのも必然であるけれども話すことはない。店を出るのはおれのほうがいつも早く、出る際に、あ、またパズドラやってら、ってかんじで後にする。タブレットがでかい。

 

たとえばお店というのはいつも同じ時間に同じことが起こり一連の流れみたいなものがあるけれども、時には例外というのもつきものであって、それはつまりは諸事情による開店時間の遅延、紙で店のドアに「今日は7時半に開店します」といった張り紙がなされたことが今まで3回ぐらいあった。

 

恵比寿は栄えているのは周知であって、チェーン店のカフェが並ぶ。PRONTOの並びにドトールタリーズもあり、じゃあPRONTO難民たる今日はドトールにするか、と行ったらそこにおじさんがいたこともある。でっかいタブレットでパズドラをしていた。

 

昨年流行ったルーティーンという言葉、つまりはいつも決まったような作業であって、同じ時間に起きて同じ時間にお風呂に入って同じ時間に家を出て同じ時間にPRONTOに行って同じ時間にコーヒーを飲む。この動作はちょっとしたきっかけで維持は難しく、たとえば深酒をした次の日には早起きは難しく、7時に着くところが少し遅れたりするといつもの席は埋まっていたりするので、当然そのときにはおじさんの隣の席になることもあった。

 

あるいはそれは自分が原因ではなく例外によるものもあるだろう。異分子たるぱっときたおばさんに左から二番目の席を取られることもあり、彼はしぶしぶ別の席に座り、プログラムの本を広げ、でっかいタブレットでパズドラをしていた。

 

4月。春にして君を離れ。彼を見なくなったのはこの4月からだろう。プログラムの勉強が功を奏して転職したのか、あるいはパズドラのやりすぎで職を解かれたのか、いずれにせよこのPRONTOに彼は来なくなった。

 

恵比寿のどこかのカフェに居を移したのか、あるいは恵比寿から離れたのか。春にして君を想う。今、この時間も、彼はどこかのカフェでパズドラをしているだろう。

 

今夜は誰かのブルースに酔いしゃがれた声に身を任せたい。