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『さよならドビュッシー』中山七里 感想:読んだ本

何かしらの創作物をに接した感想を書くという場合には二つあって、それは内容にどこまで触れるかどうか、つまりはネタバレを含むかどうかがまず岐路になる。

 

これはいくつかのジャンルでは境界線がぼんやりする場合もあって、たとえば映画でも物によっては核心に触れることにより読んだ人がより興味を持ち実際に映画館に足を運ぶといったこともある。町山智浩宇多丸、あるいはかつての松本人志の映画レビューはそういったところ。その際にはもちろん映画の内容だけではなくそのストーリーの背景や事前知識、制作に関する逸話等が入ることでより興味を持つことがあり、いざ劇場でその予習と照らし合わるとより楽しくなるといったところがある。あるいはこのパターンは実際に見た人にも有効で、あるいは単純に面白かったという共感であったり、ふむふむそういうことだったのかといった補足として働く。

 

 

一方ストーリーの核心には触れずに、自分がどう感じたか、ストーリーに触れない範囲でどこがよかったか、まぁ読んでみなさいよ、というパターンもあるわけで。この場合はどちらかというと前者の中からストーリー部分を引き算する形。とはいえ背景や事前知識に関しては勧めることもできる。というのは事前知識というのは重要で、これはもう知識というか認識の話であって、詳しいかどうかは問わず、「そういうものがある」という認識があるかどうかで読んだ時に頭に広がる世界が全く異なってくる。教科書でもないのでこれはこうこうこう言うものであって、っていうところはいちいち説明してくれない。

 

ミステリーにおいては未読の人にそのネタバレは厳禁であるのは間違いなく、たとえば書籍名で検索するとミステリーにおいてはタイトルに【ネタバレあり】【ネタバレなし】といった文字を入れてくれるのは優しさであって、既読の人であればその両方が読む対象、未読であればネタバレなしの一択となる。

 

小説というのは時に知らなかった世界に飛びこむものであって、それはもちろんまったく知らない世界や想像を越える世界では難しい。認識の隅にあるものを引っ張り出してくる。たとえば東野圭吾ガリレオシリーズであればそれは物理の世界、『図書館戦争』では図書館の話、それはつまりは「そういうものがある」という認識は持った上で認識の中にいる点を引っ張り出し、その点に対する世界を広げる。その結果、物理に関して興味を持ち調べ物をしたり、図書館の自由に関する宣言を知ったり足を運んだり、興味を広げてそこにさらに触れるという行動につながるのはだいたい良作。知らなかったものに触れるというのはやはり楽しい。

 

ということで小説というのは例が乏しくて恐縮だけれども、前述のガリレオシリーズや図書館戦争、他はなんだ、たとえば『華麗なる一族』なら銀行だし、横山秀夫なら警察やニュース記者だったり、佐々木譲なら同じく警察だし、GOなら在日だし、まぁなんか場面や世界のカテゴリ分けができるものがあって、その中を覗き込む楽しさというのは本質だ。

 

ということで読んだのは『さよならドビュッシー』であって、読んでない人でもタイトルを聞いたことがあるかもしれないのは映画化、さらにはドラマ化されたからであって。どちらも見てないけど。タイトルのドビュッシーというのは作曲家であって音楽の話である。

 

さよならドビュッシー (宝島社文庫)

さよならドビュッシー (宝島社文庫)

 

 

背表紙は

 

ピアニストからも絶賛!ドビュッシーの調べに乗せて贈る、音楽ミステリー。ピアニストを目指す遥、16歳。祖父と従姉妹とともに家事に逢い、ひとりだけ生き残ったものの、全身大火傷を負う。それでもピアニストになることを固く近い、コンクール優勝を目指して猛レッスンに励む。ところが周囲で不吉な出来事が次々と起こり、やがて殺人事件まで発生する──。第8回『このミス』大賞受賞作品。

 

とあって他に違わずミステリー。つまりは見てない人に向けるものとしてネタバレは厳禁となる。

 

ということで感想なんだけど、途中ミステリーとはかけ離れるところがありかなり強引なところがあるなぁ、というのを思いつつ強引に押し切るのか〜〜い!というかんじではあるけれども、その強引さも必然のものであって激オモロー。

 

ストーリーの流れとしては背表紙の通り、火事に合って全身大やけどを負いながらもピアノに励む少女の周りで事件が起こっていく。で、まぁ背表紙には無いんだけどミステリーにおいては探偵あるいは探偵役が出てきがちだけど、本作ではこの探偵役が遥のピアノの先生であって、ピアノを指導しながら遥の周りに起こる出来事を解決する、ってかんじ。なんで背表紙で触れてないんだろ。たぶん文字数。たぶん「ピアニストからも絶賛!〜〜音楽ミステリー」までは消してピアノの先生、岬洋介に触れてもいいと思うんだけど。まぁいいや。

 

音楽とミステリーがどう絡み合うかというところもあるけれども、本作はパートで分けると、火事のフェーズ、事件フェーズ、ピアノレッスンフェーズ、解決フェーズってかんじで分かれていて、何かというとピアノレッスンのフェーズがミステリーとかけ離れているのであって、つまりはそのタイミングでは音楽とミステリーが全然絡み合って無くて、それがつまりは強引さというところなんだけど、ただひたすらピアノの特訓の描写がなされているのであって、さらには演奏する描写の際にはその疾走感や平静、音や振動の変化が頭の中に広がっていく。その際には音楽用語が多々出てくるのでやはり事前知識と学校での音楽の授業は大事だなっつって。

 

とはいえ強引さである。とはいえ必然性の伴う強引さと伴わない強引さ、理にかなった強引さと理不尽な強引さというのは同じ強引でも全然異なるのであって、たとえばこの前書いた同じく『このミス』の『女王はかえらない』は負の強引さであるけれども、本作『さよならドビュッシー』は正の強引さであり理不尽さはなく納得の強引であって、読み終えた頃にはyoutube検索してクラシックでも聴いてみよっかなってなるに違いないっつって。

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