9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

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『女王はかえらない』降田天:感想 他には、ノックス・マシン、砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない、荒野、アクロイド殺し

その程度はどうあれ、たとえば解決したり解決しなかったり、暴かれたり今まさに暴かれそうになるところで含みを残して終わったり、ミステリーを読むのは終着点、あるいはミステリーな箇所が明確なところがあるからでだ。

 

たとえば「ノックスの十戒」というのロナルド・ノックスが提唱したミステリーのルールというものがある。

  1. 犯人は物語の当初に登場していなければならない
  2. 探偵方法に超自然能力を用いてはならない
  3. 犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない(一つ以上、とするのは誤訳)
  4. 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない
  5. 中国人を登場させてはならない
  6. 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない
  7. 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない
  8. 探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない
  9. ワトスン役”は自分の判断を全て読者に知らせねばならない
  10. 双子一人二役は予め読者に知らされなければならない

これはある事件が起きて、犯人がいてそれを探偵が解決するパターンに当てはめられるルールであって、これを逆手に取ったパターンや、この「ノックスの十戒」そのものをミステリー化した法月綸太郎の『ノックス・マシン』といったミステリーもあったり。ノックス・マシンというと2014年「このミステリーがすごい!2014年」の1位に輝いたミステリーでいざ読んで見たけれどあんまり読みやすいものでも無かった。

 

このミステリーがすごい!」には別途、新人作家だけを対象にした「このミステリーがすごい!大賞」というものもあり、名前がかぶっているのでややこしいんだけど、ノックス・マシンと同年、2014年の大賞となったのが今回読んだ降田天の『女王はかえらない』だ。

 

 

 

ミステリーの所感を書くというのはその方向性は二つあり、ひとつは読んだ人を対象として、たとえば「この部分が伏線となっている部分がすごかったよねッ☆」とか、その考察を記載することで読んだ人同士の共感を得る方向性。ミステリーはその性質上ネタバレを避ける必用があるので、この場合にはタイトルなんかに「【ネタバレあり】」といったような記載をするのが優しい。

 

もうひとつは未読の人を対象として、その未読の人を読ませる方向に持っていくためのものである。その場合にはそのネタに真髄には迫らずに話の輪郭やポイント、作者に焦点を書いて「読んでみようと思ってもらえるといいなぁ」ってかんじで書くわけであって。ここで難しいのは「叙述トリック」というのはミステリーのジャンルでしばしばあるものだけれども、あるいはその言葉だけでネタバレであって使い方に困ってしまう。とはいえ「叙述トリックの小説が読みたい」という要望もあるわけで、「叙述トリック10選!」といったようなエントリーがアクセスを集めることもあるので、叙述トリックというカテゴリでの解説にはその言葉を使うのはアリで、作品のタイトル軸の解説であれば避けるのがよいのかもしれない。

 

というわけで降田天の『女王はかえらない』である。さてミステリーってことでどこから書こうかなっつって背表紙を見てみると

 

小学三年生のぼくのクラスでは、マキが女王として君臨し、スクール・カーストの頂点に立っていた。しかし、東京からやってきた美しい転校生・エリカの出現で、教室内のパワーバランスは崩れ、クラスメイトたちを巻き込んだ激しい権力闘争が始まった。そして夏祭りの日、ぼくたちにとって忘れられないような事件が起こる────伏線が張りめぐらされた、少女たちの残酷で切ない学園ミステリー

 

とあってなるほどミステリーね、となる。

 

女子小学生が出て来る小説となると、そのどの側面を描くかで印象は大きく変わるものであって、たとえば同じ桜庭一樹の著作でも『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の女子小学生と『荒野』の女子小学生は描かれ方が全然違うものであって(荒野は小学生だけの時期だけじゃないけど)、それはもちろん前者はミステリーで後者は少女の恋に焦点を宛てたストーリーだから描かれ方が違うけれども。しかし桜庭一樹が描く少女はすばらしい。また別途書きたい。

 

女子小学生の残酷な面、あるいは女子小学生と残酷をかけ合わせるとそれはそれは胸糞が悪くなることはこのうえない。

 

先述の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も胸糞悪さはひときわ輝いていて、読み終わった後には立ち直れないぐらいのダメージを受けるんだけれども、その描かれ方には愛らしさが満ちていて、それぞれの登場人物に対する感情を持ってストーリーに入り込める。その分残酷になってしまうんだけど。

 

そして本作『女王はかえらない』である。背表紙に書かれたように小学性、女王、スクール・カースト、権力闘争、事件、といったワードが散りばめられていて胸糞が悪くなりそう感がぷんぷんする。そして実際に胸糞は悪くなる。

 

ミステリーというのは読み方にもいろいろあるだろう。たとえば誰が犯人かを読み解こうとしながら読んでいくスタイルもあれば、その中のストーリーに重きを置いて、どのような経緯でそこに至ったかがミステリーの真髄とするような読み方もあれば。

 

ミステリーの罪は何か。

 

たとえば誰が犯人かを読み解こうと読み進めた場合には当たる場合と当たらない場合があるわけで。でもそこは大した問題ではない。当たった場合、あるいは当たらなかった場合のどちらに対しても読後感が問われるものではないだろうか。

 

当たったから良かった、当たってもなんじゃこれ、しょうもな〜〜、となる場合もあり、当たらなかってもふむふむなるほどこれはしてやられた〜〜、となる場合もある。読後感がミステリーの全てである。

 

ってことで話が逸れて逸れて今にいたるけれども、本作『女王はかえらない』はクソである。胸糞悪くそのストーリーもクソである。

 

というのは、おれ自身めちゃくちゃ本を読んでいるわけではないけれども、ぼちぼち読む程度の範囲でそのトリックが見え見えであって、どこかで見たようなものをつなぎ合わせて後はうまいこと納めようってかんじで補足したという順番にしか見えないのであって、特に構成が大事な場合にはそれはなおさらである。

 

フェアかどうかという話もある。読後感がフェアかどうかである。

たとえばアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』という名作はその刊行直後は「フェアかどうか」の議論が紛糾したという。とはいえ議論が巻き起こるのはいいことだ。なぜならフェア派とアンフェア派が両立してどちらにも主張があるからだ。

 

本作『女王はかえらない』をこの視点で見るとアンフェアだ。稚拙で見え見えな構成な上にその騙し方がアンフェアとなると目も当てられないのであって、よくこんなものが大賞になるなと思うぐらいであって。

 

とはいえミステリーをいくつか読んだ人にとってはクソであっても、初めて見る人に対してはなるほどこういうミステリーがあるのか、となる可能性もあるだろう。

 

このミステリーがすごい!大賞」。”本大賞創設の意図は、面白い作品・新しい才能を発掘・育成する新しいシステムを構築することにあります。”とあって新人作家のための賞であるけれども、もしかすると作家ではなく読みて側が新人のためのものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

  

荒野

荒野

 

 

アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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