9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

日替わり定食にしなかった。

日替わり定食にしなかった。

 

衣食住というものがある。これは生活をしていくうえでの基礎という概念であり、生活の基本的な要件である。つまりは人が人らしく生活する上で必要であるものを漢字一文字ずつにまとめたもので小学校ぐらいで見る単語かと思われるが、すなわち衣、服を着ることが生活するうえでは必要であり、もしも衣服がないのであれば裸、すなわちすっぽんぽんということは外に出ることがかなわず、もしもその姿で街に出たらば一発で逮捕される可能性もあり、とはいえ捕まらないぐらいの最低限としてグンゼのブリーフを1枚与えられたところで街に繰り出しても日本には世界に誇れる四季があり、夏には日が照り返し体を焼き、冬には気温の低さに体が冷えてしまうだろう。風邪の他、さまざまな疫病、疾病にかかってしまうため体が参ってしまう。よって衣服は生活するうえで必要である。次に食、食べることももちろん人が生きるためには必要であり食べることに事欠けば栄養が足りず体が参ってしまう。住というのは住まうところであり、それは家であったり部屋であったり、日々の拠点にするところであり、これもたとえば野ざらしに住まうとなると雨の日はびしょ濡れになり雪の日は雪のベッドに眠ることになり体が参ってしまう。よって我々は日々のリソースを衣食住にあてるのであり、そのバッファ、余剰を他の娯楽や趣味にあてるものである。しかしここで考えてみたらば、衣と住は無くても死なない可能性があるのではなかろうか、というとずんべらぼんな君は「無理っしょ」と言うかもしれないけれども、衣住すなわち着るものと住まうところが無いとするならば、先述のように体が参ってしまうことは間違いないというのはわかりつつも考えてみると、たとえば夏は北に向い歩き、冬は南へ向かって歩き、雨は木で遮り、風は洞穴で遮るならば外環境、自然の変動による体調の変化は避けられ体が参ることはないのだろうかと考えてみると、やはりマスト、最重要要件は食であり、食がなければ飢えてしまうものであり一発で死んでしまうものである。ということで我々サッラリーマンにも昼休憩というのが与えられるのが一般であり、この時間を使って食を営めという大本営からの命令がくだるのである。まぁ端的にいうと今日は日替わり定食にしなかった。

 

さて、お昼休憩というとお昼ごはんを食べるわけだけれども、君はどんなランチを営むのだろうか。あるいは外のお店に行って食べ、あるいはコンビニやお弁当屋さんでお弁当やサラダ、サラダチキンなどを購買して会社の休憩室で同僚達と円卓を囲み、あるいは優良企業、大企業に勤める君、会社には社食、すなわち社員食堂が設置されており、福利厚生に甘んじて栄養バランスの取れた優れたランチを安価貪り、あるいはおうちでつくったお弁当を持参しデスクで食べるのかもしれない。そのどれも生きる上での活動であり、そのどれも素敵なランチである。社食でいうとおれ、新卒で勤めた会社には食堂が備えられ、お給料から一日あたりたしか500円かなんかが天引きされ定食が食べられる、という福利厚生があったわけだけれども、メニューに選択肢はなく毎日何かしらのおかずとごはんとお味噌汁であり、その定食がひどいのなんの、やばい時にはおかずがじゃがいもひとつだったりするわけであって、いや、しかしさすがに会社の食堂、栄養バランスがしっかり考えられているのだろうと疑問に思うかもしれないけれども、そこもまた否、お味噌汁の塩分は海より広く、味付けにいたっても極めて塩分が高く、つまりは塩であり、ある日人参を煮たようなものが入っていたわけだけれども、まるでチョリソー、否、その人参に含まれていた塩分が物理や化学の限界を越えた、つまりは浸透圧とかなんかよくわからんけれども、そういうものを超越した塩分だったことがあり、青は藍より出でて藍より青し、人参は塩よりも塩分濃度が濃くなることができると膝を打ったのも良い思い出であり、その社食をやめる際にはやめる理由を一筆書かないと行けないシステムがあり、同僚は健康のためにやめる、と書いた。その会社は数年前に100億を越える負債をかかえて倒産した。

 

ではここでおれ、お昼ごはんは普段どうしているのかというと外で食べているのであり、よく行く定食屋さんがあるのでそこで日替わり定食、すなわち月曜日はからあげで火曜日はハンバーグが出て、キャベツもごはんもお味噌汁もつき栄養も万全、量も申し分ないのであり、さらには決して曜日固定ではなく、今週と来週ではローテーションを変えてくるため飽くことなく毎日通っている。もちろん日替わり以外のメニューも豊富であるのだけれどもランチタイム、客はほぼ日替わり定食をオーダーするのであり、それを知っている店舗もまた日替わり定食を量産する体制を取るのでありより効率的に忙しいランチタイム、ニーズが高く次から次へと来る客を捌くのである。日替わり定食がオーダーされるとものの1,2分で卓には日替わり定食が運び込まれるサイクルを整え効率を重視することにより客を取りこぼさず利益もしっかり得るのである。しかしふとここで思うのは、おれたちは日替わり定食により自由を奪われているのではなかろうか、という疑問である。すなわち選択肢に対して盲目を強いられ日替わり定食をオーダーせざるをえないバイブス、雰囲気、店舗前に出た看板、その看板にはその日の日替わりが何かが記されており、からあげ、チキン南蛮、煮込みハンバーグ、その日によって異なるメインが記されており600円、ここ恵比寿では非常にリーズナブルであり、比して他の定食は700円を越えるのでありもう無意識、意識の外で日替わり定食をオーダーする雰囲気にされている。これは選択肢を奪われ自由を制限されている状態なのではかろうかという疑問に苛まれるのである。自由とは何か。自由とは選択肢であり選択肢に対してどの選択や判断をするのかという多様性であり、一見日替わり定食以外のメニューも取り揃えているように見せかけその一方、巧妙な手口により日替わり定食に誘導されていてカゴの中の鳥。おれはカゴの中の鳥である。ちゅんちゅら泣いているカゴの中の鳥である。サーカスの象がなぜ逃げないかという話しを君は知ってるかい?それは幼少の象の足と杭をくさりで結びつけ動けないようにするのである。子どもの象は最初のうちは何度もくさりを外そうと試みるのだけれども外れないのを知る。そうすると杭に結び付けられた象はこの状態では動けないということが見に染み付くのであり、成長してその杭をなぎ倒すパワーを得たところで身に沁みついた動けないという思いが勝ち、逃げようとする意識がなくなってしまうのである。つまりは日替わり定食は繋がれたくさりである。自由や選択肢を奪うくさりである。おれたちは象である。くさりに繋がれた象であり、日々過ごす内に疑問に思うことも疑問に思わず無意識にあきらめてしまう象である。サーカスの象でありカゴの中の鳥である。しかしこの状態から一歩踏み出さないといけない。おれは選択肢、自由を思い出したのである。まぁ端的にいうと今日は日替わり定食にしなかった。

 

おれたちは自由である。自由であり不自由である。自由に束縛された不自由である。知らぬ間に選択肢を制限されているおれたち、自由とは日替わり定食を脱することである。あらゆる情報が取り巻くこの世界、どこで誰にどう誘導されているかわからないもんだぜ。そんなときにふと選択肢の可能性を見出してみな。そうしたら世界がいつもと変わって見えるかもしれないぜ?日替わり定食をオーダーする君は機械である。人の意志を持たぬ、選択肢という概念から遠ざかった無機質なマシーンさ。でもその機械にはある日自我が芽生えて、機械が機械をつくる時代になって、感情を電気信号で表すようになって、いつの日か機械が恋をすることもあるってことだよ。そして電脳の世界で自我を持った機械同士が自分の存在に疑問を投げかけ滅ぼし合うのさ。それもまた自由の話しさ。日替わり定食があるから日替わり定食にする、そんなことはもうやめようぜ。おれたちは自由なんだから。君を取り巻く選択肢の収束を君が解放するんだ。収束を拡散に変えるんだ。そうしたら衣食住、また違ったライフスタイルが君に備わるはずさ。おれたちは機械じゃない。サーカスの象でもカゴの中の鳥でもない。それを実現するためには日替わり定食から脱するんだ。そうしておれは今日、いつものチキンカツ定食を食べたってわけさ。そういうお話さ。今日は日替わり定食にしなかった。

 

今日は日替わり定食にしなかった。