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9回裏最後のバッターの最後の一球を、客席に向かって投げてそのままマウンドからピッチャーが消えてくようなブログ

平日は1000〜2000文字ぐらい、土日は4000文字ぐらい書きますがどちらも端的に言うと20文字くらいに収まるブログです。

いけんちゃうか。

いけんちゃうか。

 

寝て起きて風呂に入ってごはんを食べて仕事して勉強して恋をしたり妄想にふけったり運動したり怪我したり疲れたり飲んだり笑ったり恋したり歌ったり踊ったり探したりつけたり消したりしながら日々生活を送るものであり、同じタイミングは二度と訪れずその時その時をつないで毎日を過ごしていると、ところどころで、いけんちゃうか、と思うタイミングがあるだろう。いけんちゃうか、というのはたとえば仕事であれば土台無理なスケジュールが来た際には初見で、くわぁ、これ無理ちゃうか、となったところでクライアントの言うことは金言で至言であり人類ならびに弊社の宝である。クライアントが黒と言えば虹色も黒からグレーへの階調になるものであり、魚類は地上にあがり両生類は空を飛び、物理の概念は捻じ曲げられ科学を否定し、パラレルワールドに迷いこみ時空の歪みをもたらすものであり、つまりはクライアントとは世界を定義するものである。創造主である。上下とかじゃなくてパートナーなんだから一緒に世界をつくっていこうよッ♪となればよいけれどもそれを踏まえてもあまりにも無理難題なスケジュールが来たらばきみはどうするだろう。たとえばきみは、クライアントに事情を話し、このスケジュールだと難しいところがあるのでと揉み手を繰り出しスケジュールを後ろにずらして組み直せばよいではないか、というのもひとつあるだろう。しかしこの世界にはどうしようも無いことがあるものであり、たとえば社運をかけた新商品が出るタイミングやそれに伴うイベントだとしたらどうだろう。遅れるということは致命傷であり許されず、つまりは後ろが無いのである。たとえば知人はベンチャー企業を立ち上げ、たしかバイクか何かのプロダクトをつくっていたのであり、その新商品、最初の商品をとあるでかい展示会で発表しようとしていたけれども結局新商品がその展示会に間に合わず何も出すことが無いまま会社を締めた例などもある。最初から背水の陣である。さて、その際には君は頭を走らせスケジュールとにらみ合い、これをこうしてあれをこうしてそれをそうしてここでああしたら、はっ!。ここで出るのがいけんちゃうか、である。いけんちゃうか、というのは解決である。たとえば無能のおれ、年明けそこいらでなぜかわりかし案件が重なっており、社会復帰もままならぬまま数週間ひぃひぃ言っており、メモリが128MBしかないゆえのキャパオーバーを感じたりするのだけれども、今こうしてコーヒーを飲みながらつらつらとこれを書いている分にはいけんちゃうか感は持っているのであり、まぁ端的に言うと、いけんちゃうか。

 

ここで、このいけんちゃうか、というのは何も実際に手の届く距離にあるものだけでは無いことを強調しておきたい。手の届く距離というのはたとえば前述の仕事であったり日常生活で起こるいけんちゃうかであり、リアルないけんちゃうかである。では逆に手の届く距離では無い場所にあるいけんちゃうか、とはアンリアルである。リアルの反対語に何を置くのかも難しい昨今ではあるけれども、決してインターネットやバーチャルなものだけに落ちるものでもないのでアンリアルとしているけれども。いけんちゃうかと言ってしまっている以上はそれは手の届く距離ではなかろうか、手が届く距離であるからこそのいけんちゃうかである節があるのだけれども、これが絶妙なのである。絶妙であり秀逸でありあっぱれである。これは何か。このアンリアルいけんちゃうかが如実にあらわれているのがテレビタレントである。昨今のテレビタレントにはいけんちゃうか感があるのである。さらに言うともちろん全部とは言わず一部ではあるけれども恣意的にいけんちゃうか感を売っているのではなかろうか。テレビを見ていてるとちんちくりんが阿呆のようなコメントをしてゲラゲラ笑っていたりするけれども、たとえば君があるときバーのカウンターで一人飲んでいたとしよう。ドアが開き入ってきた女性はそのタレントであり、ひとつ空いていた君の隣に座ったとする。この東京、いつどこでどのような機会に遭遇するかはわからない。六本木や麻布、銀座や新宿に渋谷、もしかすると千歳烏山なんかでもそういう機会はあるかもしれない。おそらく芸能人は東京に住まっており、今ここ渋谷からおそらく半径10km以内には芸能人が5万人ぐらいいるだろう。いつどこでどのような機会がひょっこり現れるかはわからないので常に細心の注意を腹痛い。さておき、バーカウンターで君の隣に座った女性、マスターに「ファジーネーブルください。」と言ったとするだろう。この時点で君は「いけんちゃうか」と思わないかい?ファジーネーブルだぜ。もうここは女性が頼んだらいけんちゃうか、と思うカクテルのランキングをつくってもいいぐらいだ。ファジーネーブルの他にはカシスオレンジやサングリアもランクインするだろう。カシスオレンジをカシオレと略したらもう鉄板だ、間違いない。逆にバーカウンターの隣の席で「ねぇマスター、とびっきりドライなマティーニをちょうだい」なんて言ったらばとてもじゃないけれどもいけんちゃうかとは思わないだろう。わかりやすい。つまりはこのいけんちゃうかとは、もしバーで隣に座ったら口説けんちゃうか、といういけんちゃうかであり、いけんちゃうかと思わせるタレントが昨今のテレビに出てるのではなかろうか。たとえば物心もまだつかない幼少のころを思い出してみよう。90年代。テレビに出る女優やタレントを思い出してみてほしい。いけんちゃうかと思わせるタレントはブラウン管の向こうにいただろうか。想像が難しいだろう。つまりは昨今のテレビにはいけんちゃうか、もう少し砕いて言うとワンチャンいけんちゃうかと思わせるものがあるのである。バーで隣に座ったならば、道端で偶然会ったならば。でもここで注意していただきたいのは全てたらればのいけんちゃうかであり、このリアルとアンリアルを混同すると処方箋を書いてもらう必要があるので注意されたい。つまりはこのいけんちゃうかという感情が現代にはびこる共感であり、フックであり、共有されるものである。まぁ端的に言うと、いけんちゃうか。

 

たとえば今おれは渋谷のカフェミヤマでコーヒーを飲みながらPCを広げてカタカタ打っている。渋谷にはいけんちゃうかが溢れているのであり、ここそこあそこでいけんちゃうかと思っている男性といけんちゃうかと思われている女性。いけんちゃうかと思われている男性にいけんちゃうかと思う女性。渋谷となればナンパがそこかしこで繰り広げられており、クラブなんかに入ったらズンドコズンドコやかましくリズムを刻む大音量に囲まれて、ナンパでもすっかと意気揚々と入った男女がそこかしこを物色した上でのナンパをするものであり、そのナンパという行為の一歩前にはもちろんいけんちゃうかという感情がある。というと実は間違いでありナンパガチ勢はいけんちゃうかとか考えずとりあえず数を打つのは周知の事実である。つまりはこのいけんちゃうかとか考えているよりもより重要なのは行動であり、逆に言うとこのいけんちゃうかという感情を探すことで時に人は前に進めず歩を止めるのである。やはりいけんちゃうかという感情は悪であり、隙を見せれば入り込んでくるフレキシブルな悪魔である。行動を起こさなければ結果はついてこないものであり、つまりは全部嘘である。いけんちゃうかという感情は妄想であり空想でありファンタジーである。だからこそ妄想で留めるものであり、それは感情から外に出ないものであり、幻想であり夢である。ブラウン管の向こう側にはやはり夢があるのである。いけんちゃうかという夢がある。そしてそのいけんちゃうかという感情があれば明日も元気に過ごせるのかもしれないのである。

 

日劇場版501を見た。ネタバレは避けるけれどもその映画から得られる教訓はつまりは行動の重要性であり、それがたとえば迷走であったり行き当たりばったりであったり無茶であっても、行動に勝るものはなく、つまりはいけんちゃうかという感情は全部妄想でありフェイクでありまるで嘘さ。いけんちゃうか感があっても決していけるわけではなく、案外無理ちゃうか感があるぐらいのほうがいけたりするので難しい。世界は難しい。それでもおれたちは日々いけんちゃうかと思いながら前に進むのであり、いけんちゃうかといけたという過去形の間には大きな隔たりがあるのもおれたちは知っている。魔の感情であり感情のガンであるいけんちゃうか。しかしそれとも共存して、実際にいけないとしてもいけんちゃうかという感情を持って寝て起きて風呂に入ってごはんを食べて仕事して勉強して恋をしたり妄想にふけったり運動したり怪我したり疲れたり飲んだり笑ったり恋したり歌ったり踊ったり探したりつけたり消したりしながら日々生活を送ったらいいじゃないか。いけんちゃうかという感情と共存して明日も過ごして世界はまわるのである。まぁ端的に言うと、いけんちゃうか。

 

いけんちゃうか。

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